本記事にはアフィリエイト広告(PR)が含まれます。
「いいんだよ」
短い言葉である。平易な言葉である。だが、その言葉の奥には、人の悲しみを抱きとめ、罪や過ちを祓い清め、もう一度この世へ送り返す、神職としての深い祈りが宿っている。
宮司は思う。人は、正論だけでは救われない。
正しいことを語るのは大切である。道を示すことも大切である。怠るな、志を持て、祖国を愛せ、父母祖先に感謝せよ。その一つ一つは、宮司が日々訴え続けている日本人の根本である。しかし、人はいつも強く立っていられるわけではない。どれほど志を持つ者でも、折れる日がある。どれほど信念を掲げる者でも、胸の奥で泣き崩れる夜がある。人間とは、そういうものである。
だからこそ、神社がある。
神社とは、勝った者だけが胸を張って参る場所ではない。立派な者だけが清らかな顔をしてくぐる場所でもない。むしろ、心に傷を負った者、誰にも言えぬ苦しみを抱えた者、人生の道に迷い、言葉にならぬ悔しさを胸に押し込めてきた者が、静かに鳥居をくぐり、神前で涙をこぼしてよい場所である。
宮司が「いいんだよ」と言う時、それは甘やかしではない。罪を罪でないと言うことでもない。過ちを軽く見よということでもない。「いいんだよ」とは、まず人を受け止める言葉である。裁く前に抱きとめる言葉である。人が自分の痛みを認め、涙を流し、心の荷を下ろすために差し出される、最初の祈りの言葉である。
人は、言いたくないことを抱えて生きている。
誰にも話せない失敗がある。口にした瞬間に自分が壊れてしまいそうな悔しさがある。家族にも友にも言えない悲しみがある。仕事での挫折、失恋、裏切り、病、孤独、罪悪感、後悔。人生には、説明すれば軽くなる痛みばかりではない。むしろ、言葉にできないからこそ、人は苦しむのである。
その時に、「なぜそうなったのか」「誰が悪いのか」「どう反省するのか」と急いで問われれば、人の心はさらに閉じる。もちろん反省は必要である。責任も必要である。しかし、反省に至るためにも、まず泣く場所が要る。責任を引き受けるためにも、まず呼吸を取り戻す場所が要る。祓いとは、そのためにある。
神道における祓い清めは、単なる形式ではない。罪や穢れを水で流すという外面的な作法にとどまらない。心の奥に沈んだ濁り、恨み、悲しみ、怒り、自己嫌悪、諦め、それらを神前に差し出し、もう一度まっすぐな心へ立ち返るための営みである。人は穢れる。人は間違える。人は傷つく。だが、人は清められることもできる。ここに神道の深い慈しみがある。
宮司は、かつて吉野山に奉仕した。吉野はただの観光地ではない。花の名所という美しさだけで語り尽くせる地でもない。後醍醐天皇の御心が宿り、南朝の悲願が山々にしみ込み、幾多の祈りと涙を受け止めてきた神域である。夏の吉野には、青葉を渡る風があり、石段に落ちる光があり、手水の水音がある。その清らかな涼しさは、日本人に再生というものを教えてきた。
吉野は、再生の地である。
吉野は、よみがえりの地である。
PR|吉野への旅に、泊まる場所を整える
吉野を訪ねる旅には、無理のない日程を用意したい。じゃらんでは、吉野・奥吉野の宿を探すことができる。参拝先までの距離や交通手段を確かめ、旅程に合う宿を選んでいただきたい。
じゃらんで吉野・奥吉野の宿を探す

宿泊予約はブラウザからご利用ください。
人は、吉野に来て泣いてよい。泣くことは弱さではない。涙は、心の奥にたまった濁りを洗う水である。歯を食いしばって生きてきた者ほど、泣くことを恥じる。強くなければならない、負けてはならない、誰にも弱さを見せてはならないと、心を固くしてしまう。だが、固くなりすぎた心は、やがて折れる。神前における涙は、折れる前に心をほどくための恵みである。
「ここで泣いてお帰り」
この言葉には、神社の本来の役割が込められている。泣くために来てもよい。捨てるために来てもよい。言葉にならぬものを神前に置いて帰ってよい。宮司が祓い清めるとは、参拝者の人生を代わりに背負うことではない。その人が背負いすぎて潰れそうになっている荷を、一度神さまの前に下ろす手助けをすることである。
そして、もう一度歩き出せるようにすることである。
現代の日本人は、頑張りすぎている。頑張らなければならない時はある。宮司も、怠るな、倦むこと無れ、と幾度も語ってきた。しかし、頑張ることと、自分を壊すことは違う。我慢することと、心を殺すことは違う。強がることと、本当に強いことは違う。突っ張ることと、誇りを持つことも違う。
本当の強さとは、泣くべき時に泣けることである。助けを求めるべき時に求められることである。自分の弱さを神前に差し出し、もう一度清められて立つことである。弱さを見ないふりをする者は、いつかその弱さに呑まれる。弱さを認め、祓い、整える者だけが、静かな強さを得る。
宮司は、安倍晋三元総理のことを思う時にも、この「勇気と希望」という言葉に立ち返る。勇気とは、ただ前へ進めと人を急き立てる力ではない。希望とは、明るい言葉で悲しみを覆い隠すことでもない。真の勇気とは、痛みを抱えたままでも一歩を出す力である。真の希望とは、泣いた後にも朝が来ると信じられる心である。
神職の務めは、その勇気と希望を人に渡すことである。
政治も、教育も、家庭も、本来は人に勇気と希望を与えるものでなければならない。ところが現代社会は、人を裁く言葉に満ちている。失敗した者を責める。弱った者を笑う。つまずいた者を突き放す。SNSには短い怒りが飛び交い、新聞やテレビにも人を立ち直らせる言葉より、追い詰める言葉があふれている。
このような時代だからこそ、「いいんだよ」という言葉が必要なのである。
もちろん、何でも許せばよいという話ではない。罪を犯したなら償わねばならない。過ちを犯したなら正さねばならない。人を傷つけたなら謝らねばならない。しかし、人は償う前に、自分がまだ人間として生きてよいのだと知らねばならない。正す前に、正す力を取り戻さねばならない。謝る前に、謝る勇気を持てるほど心を整えねばならない。
「いいんだよ」とは、その入口である。
神社は、再出発の入口である。
宮司は、長い人生の中で、多くの人の涙を見てきた。家族を失った人。病に倒れた人。事業に失敗した人。恋に破れた人。親子の縁に苦しむ人。祖国の行く末に胸を痛める人。人はそれぞれ違う痛みを抱えているが、神前で流す涙はどこか似ている。そこには、もう一度まっすぐに生きたいという願いがある。清らかになりたいという祈りがある。
吉野の山は、その涙を受け止めてきた。夏の青葉は、人の悲しみを知らぬ顔で茂るのではない。むしろ、悲しみを抱いた人々の祈りを受け止めるように、深く、静かに、山を包んでいる。額の汗をぬぐい、手水の水に手を浸し、風に心をほどく。その一つ一つが、人に「よみがえり」を教えるのである。
人は何度でも立ち直れる。
人生に失敗はある。罪もある。過ちもある。恥ずかしい記憶もある。もう取り返しがつかないと思う夜もある。しかし、それでも神前に立ち、涙を流し、祓い清めを受け、今日からもう一度歩き出すことはできる。日本の神々は、人間を完全無欠な存在として見ておられるのではない。むしろ、弱く、迷い、傷つき、それでも清らかであろうとする人の心を見ておられる。
宮司は、令和の若者にも、大人たちにも、疲れきった人にも、このことを伝えたい。泣いてよい。休んでよい。言えないことは、無理に言わなくてよい。けれども、心の奥で自分を見捨ててはならない。神さまの前に立て。手を合わせよ。涙を流せ。そして、置いて帰れるものは置いて帰れ。
神社を出る時、少しだけ顔を上げればよい。
笑顔になれない日もある。すぐに元気になれない時もある。それでも、神前で一つ荷を下ろしたなら、人は昨日とは違う一歩を出せる。宮司が「もう笑顔で帰っていいんだよ」と言う時、それは無理に笑えという意味ではない。笑ってもよいのだ、幸せになってもよいのだ、自分を許してもよいのだという、魂への許しである。
この国には、そういう場所が必要である。
家庭にも、学校にも、職場にも、政治にも、人が泣いてよい余白が必要である。強い言葉ばかりの国は、やがて人の心を疲れさせる。正しさばかりを振りかざす社会は、やがて人を沈黙させる。日本人が古来大切にしてきたのは、ただ厳しさではない。厳しさの奥に慈しみがあり、慈しみの奥に清めがあり、清めの奥に再生があった。
吉野は、そのことを今も静かに語っている。
山は黙っている。青葉も黙っている。社も黙っている。けれども、その沈黙の中に、「いいんだよ」という神の声がある。遠くから来た者にも、近くから来た者にも、立派な者にも、破れた者にも、同じように風が吹く。同じように光が差す。同じように神前は開かれている。
宮司は、これからもその声を伝えていきたい。
つらい人よ、吉野へ来ればよい。神社へ来ればよい。言葉にならぬ悲しみを抱えたまま、ただ手を合わせればよい。そこで泣いて、そこで捨てて、そこで清められて帰ればよい。人生は一度つまずいたから終わるのではない。涙を流した後に、もう一度歩き出すことができるなら、その涙は敗北ではなく、再生の水となる。
日本を立て直す道もまた、ここから始まるのではないか。
人を裁く前に、抱きとめること。人を責める前に、祓い清めること。絶望の中にある者へ、勇気と希望を手渡すこと。神社がその務めを果たし、家庭がその心を取り戻し、社会が人の涙を軽んじなくなった時、日本人の魂はもう一度、静かに甦っていく。
「いいんだよ」
この短い言葉を、宮司は祈りとして受け止めたい。弱さを許す祈り。涙を清める祈り。人を再び立ち上がらせる祈り。吉野の山に吹く風のように、その言葉が傷ついた人の心を撫で、明日へ向かう小さな力となることを、宮司は神前に願うのである。