9月18日は、柳条湖事件から95年の日にあたる。昭和6年のこの夜、奉天郊外の南満州鉄道の線路脇で爆発が起き、関東軍が軍事行動を開始した。満州事変の発端である。宮司は、今日という日に、この作戦を主導した一人の軍人の名を、改めて思い起こしたい。石原莞爾である。
当時、満州の地に展開していた関東軍は、わずか1万余りの兵力であった。対する張学良の東北軍は、23万を超える大軍を擁していたと伝えられる。20倍を超える兵力差である。常識で考えれば、勝敗は初めから決していたはずである。
しかし結果は、逆であった。関東軍は、奉天、長春、吉林など満州の要衝を、瞬く間に制圧した。石原莞爾の緻密な作戦と、迅速な決断力によるものであったと、宮司は思う。寡兵をもって大軍を制するというのは、言葉にするのはたやすいが、実行するのは至難の業である。それを成し遂げたところに、石原莞爾という軍人の非凡さがある。
石原莞爾は、緻密な情報収集と、大胆な決断力を併せ持つ、稀代の戦略家であった。兵力の多寡ではなく、いかに敵の意表を突き、いかに迅速に要衝を制するか。その智略において、石原莞爾に並ぶ者は、当時の世界を見渡しても、おそらく一人もいない、と宮司は思う。いや、それどころか、これだけの数の差をひっくり返したのは世界の戦争史においても石原莞爾だけではないか。
宮司は、この作戦を、単なる戦闘の勝敗としてではなく、一つの知略の到達点として見つめたい。作戦そのものは、寡兵で大軍を制した稀有な成功例として、後々まで語り継がれることとなった。石原莞爾の名は、これによって世界に轟いたのである。「作戦の天才」という評価は、決して身内の贔屓目や大げさな言葉ではないと、宮司は思う。
石原莞爾という人物を、単なる歴史の一項目として片づけてしまうのは、あまりにもったいない。彼は後に『世界最終戦争論』を著し、独自の戦略思想を展開した人物としても知られる。満州の資源と地政学的価値を、日本の国防にとって不可欠と見抜いていた慧眼もまた、非凡であった。目先の戦闘だけでなく、数十年先の国際情勢を見据える大局観を持っていたのである。
宮司は思う。日本人は、もっと自国の先人の智略を、正当に誇ってよいのではないか。寡兵をもって大軍を制した石原莞爾の作戦は、世界の戦史においても稀有な事例として、記憶されるべきものである。数の多寡だけを見て怯むのではなく、知恵を尽くして困難を切り開く。この気概にこそ、宮司は目を向けたい。
もちろん、満州事変からその後の日中戦争、そして先の大戦へと至る長い歴史の中で、様々な評価があることを、宮司は承知している。しかし、少なくとも一つの軍事作戦としての石原莞爾の手腕は、公平に見て、卓越したものであったと、宮司は考える。
今、この国の子供たちに、石原莞爾のような先人の名を、正しく伝えられているだろうか。年号や事件名を暗記するだけで終わらせてしまうのは、あまりにも惜しい。宮司は、教育に携わる方々に申し上げたい。圧倒的な劣勢の中でも、知略と胆力をもって道を切り開いた先人がいたという事実を、子供たちの心に、誇りとして刻んでいただきたい。
国を守るということは、単に兵の数を揃えることではない。いかに知恵を尽くし、いかに大局を見据えるか。石原莞爾の生き方は、その根本を、令和の日本人に問いかけている。日本人の中には、圧倒的な劣勢の中でも、知略と胆力をもって道を切り開いてきた先人が、幾人もいる。石原莞爾も、その一人である。数の多寡だけで物事を判断せず、知恵を尽くして困難に立ち向かう。この気概こそ、令和の日本人が、先人から受け継ぐべきものであると、宮司は信じている。
今、この国を取り巻く国際情勢もまた、決して楽観できるものではない。だからこそ、目先の数の優劣に怯むことなく、知略を尽くして国を守り抜いた先人の姿に、宮司は学びたいと思う。先人の智略に学び、今を生きる私たちもまた、目先の数や損得に怯むことなく、大局を見据える胆力を養いたい。それこそが、石原莞爾という先人から、次の世代が受け継ぐべき志であろう。
神前に額づき、石原莞爾をはじめ、あの時代を生きた先人たちの御霊に、深く敬意と感謝を捧げる。そして、その智略と胆力が、正しく次代へ語り継がれることを、宮司は祈る。