秋になると、各地で祭りの太鼓が響く。
提灯に灯が入り、氏子が集まり、神輿やだんじりが動き、子供たちの声が町に戻る。宮司は、その光景を見るたびに、祭りとは地域の魂そのものだと思う。
秋祭りは、単なる催しではない。
観光行事でも、賑やかしでも、休日の娯楽でもない。
宮司は、秋祭りを賑わいの外側だけで見てはならないと思う。中心にあるのは、収穫への感謝であり、地域を守ってくださる神々への畏れである。その中心を失えば、どれほど人が集まっても、祭りは音だけのものになる。神前に頭を垂れる時間があってこそ、太鼓の音も、提灯の灯も、意味を持つ。
秋祭りとは、神々へ収穫を感謝し、地域の人々が心を合わせ、祖先から受け継いだ故郷の記憶を子供たちへ手渡す営みである。
米が実り、野菜が育ち、海や山の恵みをいただく。人は自分の力だけで生きているのではない。天地の働きがあり、神々の御恵みがあり、農に携わる人々の汗があり、地域の支えがある。そのことを忘れないために、祭りがある。
祭りは、感謝の形である。
そして、共同体の形でもある。
普段は別々に暮らしている人々が、祭りの日には集まる。準備をする人、掃除をする人、神輿を担ぐ人、料理を作る人、子供を見守る人、寄付をする人、ただ手を合わせる人。それぞれの役割が重なって、祭りは成り立つ。
ここに、地域の和がある。
現代は、地域のつながりが薄くなった。隣に誰が住んでいるか分からない。町内会に入らない。祭りの準備は面倒だ。役を引き受けたくない。そうした声もあるであろう。忙しい生活の中で、負担に感じる気持ちも分かる。
しかし、面倒なものをすべて捨てた先に、温かい地域は残るだろうか。
人と人は、便利さだけでは結ばれない。共に汗をかき、共に準備し、共に神前に頭を下げる中で、少しずつ結ばれていく。祭りの面倒さの中に、地域を守る力がある。
面倒だからこそ、祭りには意味がある。人は、便利なものだけではつながらない。汗をかき、役を引き受け、時に意見をぶつけながら、それでも神さまの前で一つになる。その面倒の中に、共同体の筋肉が残るのである。
子供たちは、祭りを覚えている。
太鼓の音。提灯の明かり。大人たちの声。神社の境内の匂い。夜店のにぎわい。祖父母に手を引かれた記憶。そうしたものは、子供の心に故郷の原風景として残る。
大人になり、遠くへ行っても、祭りの音を聞けば心が戻る。自分には帰る場所がある、自分はこの土地に育てられたのだと、胸の奥で思い出す。これが故郷である。
故郷とは、地図上の場所だけではない。幼い日に聞いた太鼓の音であり、夕暮れに灯った提灯であり、大人たちが神前で頭を下げる姿である。祭りを失う時、地域は行事を一つ失うのではない。子供が帰るべき心の場所を一つ失うのである。
故郷を失った人間は、根を失いやすい。
祭りは、子供に根を与える。
宮司は思う。日本を甦らせるということは、中央の政治だけを変えることではない。地域を甦らせることである。神社を守り、祭りを守り、子供たちに故郷を持たせることである。
祭りが消える時、地域から神前に集う時間が消える。神前に集う時間が消える時、地域から感謝の形が消える。感謝の形が消える時、人々はただ同じ場所に住んでいるだけの存在になってしまう。
それは、あまりにも寂しい。
祭りには、厳粛さと喜びが同居している。神事の静けさがあり、直会のにぎわいがある。礼があり、笑顔がある。祈りがあり、子供の声がある。この調和こそ、日本の祭りの尊さである。
ただ騒ぐだけでは祭りではない。
ただ形式を守るだけでも祭りではない。
神々への感謝を中心に置き、人々が心を合わせる時、祭りは生きるのである。
高齢化や人口減少で、祭りを続けることが難しい地域もある。担ぎ手が足りない。費用が足りない。準備する人がいない。そうした現実は重い。だが、だからこそ、今いる人々が知恵を出し合わねばならない。形を少し変えても、祈りの芯を残すことが大切である。
大きな祭りでなくてもよい。
派手でなくてもよい。
地域の人が神前に集まり、感謝を捧げ、子供たちにその姿を見せる。それだけでも、祭りの魂は残る。
秋祭りを守ることは、地域の魂を守ることである。
地域の魂を守ることは、日本の根を守ることである。
太鼓の音を絶やしてはならない。提灯の灯を消してはならない。子供たちが故郷を思い出すための記憶を、今を預かる大人の代で断ってはならない。
祭りの日、神前に頭を下げよう。
収穫に感謝し、祖先に感謝し、地域に感謝しよう。
その祈りの中で、日本は静かに次の世代へ受け継がれていくのである。