『論語』述而第七に、「暴虎馮河して、死して悔ゆることなき者は、吾れは与にせず」という言葉がある。
暴れる虎に素手で立ち向かい、荒れ狂う河を何の備えもなく渡ろうとする。たとえ死んでも悔いはないと言う。そのような人間とは、私は共にしない。孔子は、そう言っているのである。
一見すると、これは臆病の教えのように聞こえるかもしれない。虎の前に立つ者は勇ましいではないか。荒れた河へ飛び込む者は豪胆ではないか。死んでも悔いはないと言い切る者は、覚悟があるではないか。現代でも、そのように考える人は少なくない。
しかし宮司は思う。これは、勇気と無謀を取り違えるなという厳しい教えである。
勇気とは、ただ前へ出ることではない。勇気とは、ただ大声を出すことでもない。腕力を誇り、勢いに任せ、危険を顧みず、自分の命も人の命も軽く扱うことは、勇気ではない。それは蛮勇である。蛮勇は一瞬、人の目には強く見える。しかし、その根には浅さがある。自分を律する心がない。人を思う心がない。道を見定める知恵がない。
孔子が共にしないと言ったのは、命を惜しむからではない。死を恐れるからでもない。むしろ、命を粗末にしてしまえば、大切な務めを果たすことができなくなるからである。自分一人の勢いだけで動けば、仲間を危険にさらし、家族を悲しませ、社会を乱してしまう。正義を語りながら、かえって正義を傷つけることもある。
宮司は、若い人たちに伝えたい。強さとは、暴れることではない。強さとは、耐えることである。強さとは、準備することである。強さとは、いざという時に自分の感情に呑まれず、静かに正しい判断を下すことである。
人は、ときに勢いを勇気と勘違いする。怒りに任せて言葉を投げつける。相手を屈服させれば勝ったと思う。声の大きさで正しさを証明しようとする。無茶をしてでも前へ出れば、自分は臆病ではないと思いたがる。しかし、それは心が整っていない姿である。心が整っていない者の行動は、たとえ最初の動機が正しくても、やがて道を外れる。
神道では、清めを重んじる。手水で手を清め、口をすすぎ、神前に立つ。これは形式だけのことではない。自分の内にある怒り、焦り、慢心、恐れを祓い、心を澄ませるためである。心が濁ったままでは、正しい祈りも、正しい行いも生まれない。
行動は大切である。宮司は、迷ったら行動せよと常に言っている。だが、行動とは無謀に飛び出すことではない。祈り、心を整え、何を守るべきかを見定め、その上で一歩を出すことである。橋は渡らねばならない。しかし、橋もない場所で、濁流に飛び込むことを勇気とは言わない。虎と戦わねばならぬ時もあるかもしれない。しかし、素手で暴虎に向かうことだけが男らしさではない。守るべき人がいるなら、なおさら、自分の命を大切にしてほしい。
本当の覚悟とは、死んでもよいと口にすることではない。本当の覚悟とは、生きて務めを果たすことである。父であれば父の務めがある。母であれば母の務めがある。学生には学ぶ務めがある。働く者には働く務めがある。国を思う者には、国を支える日々の務めがある。その務めを果たすために、体を鍛え、学び、備え、心を養う。これが、覚悟の土台である。
「死んでも悔いはない」という言葉は、時に美しく聞こえる。だが、死んでしまえば、残された務めは誰が果たすのか。守るべき家族はどうなるのか。伝えるべき志はどうなるのか。支えるべき地域はどうなるのか。命を懸ける場面は、人生において確かにある。しかし、命を懸けるとは、命を投げ捨てることではない。命を最も尊いものとして知っているからこそ、その命を何のために使うのかを真剣に問うのである。
現代の日本にも、暴虎馮河の姿はある。SNSで怒りに任せて人を攻撃することも、言葉の暴虎馮河である。準備も学びもなく、ただ目立ちたい一心で大きなことを叫ぶことも、思想の暴虎馮河である。自分の不満を正義の名で包み、人を傷つけることも、心の暴虎馮河である。
また、国を思う心にも、慎みが必要である。祖国を愛することは尊い。先人を敬い、国旗を大切にし、歴史を学び、皇室を敬う心は、日本人の根である。しかし、国を愛する心が乱暴な言葉となり、人を見下す心となり、短気な怒りとなるならば、それは本来の愛国ではない。真の愛国とは、静かで、深く、忍耐強いものである。日々の暮らしを正し、家族を守り、地域に尽くし、祖先に恥じぬ生き方をすることである。
安倍晋三元総理は、日本を取り戻すと訴えられた。その言葉は、乱暴に奪い返すという意味ではない。日本人が忘れかけた誇りを取り戻すということであった。歴史を取り戻す。教育を取り戻す。家族を取り戻す。地域を取り戻す。世界の中で、誇りをもって立つ日本を取り戻す。その道は、感情の勢いだけでは歩めない。知恵が要る。忍耐が要る。礼節が要る。長い努力が要る。
宮司は思う。今の日本に必要なのは、暴れる勇気ではない。静かに立つ勇気である。
批判されても、正しいと思うことを学び続ける勇気。すぐに結果が出なくても、日々の務めを続ける勇気。怒りたい時に怒りを抑え、相手をただ敵として見ない勇気。困難が来た時に騒がず、まず自分の足元を整える勇気。これこそが、令和を生きる私たちが共に育てたい勇気ではないだろうか。
古来、日本人は、荒ぶる力をただ恐れたのではない。荒ぶる力を祓い、鎮め、正しい働きへと導いてきた。祭りとは、ただ賑やかな行事ではない。人の心にある荒ぶるものを清め、共同体の平安へ結び直す営みである。神前に立つとは、自分の心の暴虎を見つめることでもある。自分の内なる濁流を見つめることでもある。
怒りがあるなら、なぜ怒っているのかを見つめてみる。恐れがあるなら、何を恐れているのかを見つめてみる。勢いだけで動きたい心があるなら、それは本当に人を守るためなのか、それとも自分の不満を晴らすためなのかを、そっと問うてみる。神前の静けさは、その問いを私たちに与えてくれる。
教育もまた、ここに立ち返りたい。子供たちに、ただ勝て、目立て、強く見せよと教えるだけでは、子供の心は疲れてしまう。本当の強さとは何か。本当の勇気とは何か。何のために学ぶのか。何のために体を鍛えるのか。何のために言葉を使うのか。それを、大人が共に考え、伝えてゆきたい。
腕力は、弱き者を守るためにある。知識は、人を見下すためではなく、世のために働くためにある。言葉は、人を傷つけるためではなく、真実を伝え、人と人を結ぶためにある。志は、自分一人が偉くなるためではなく、父母に恥じず、祖先に恥じず、後世の子供たちに恥じぬ人生を歩むためにある。
暴虎馮河に走る人は、死を恐れないように見える。しかし、実は自分の感情を恐れているのかもしれない。静かに自分と向き合うことを恐れ、準備の苦しさを避け、日々の鍛錬の地味さから逃げ、ただ一瞬の勢いで自分を大きく見せようとしているのかもしれない。それは、誰の心にも潜む弱さでもある。
真に勇気ある者は、日々をおろそかにしない。朝、心を整える。人に挨拶をする。約束を守る。学ぶ。働く。体を鍛える。家族を大切にする。神前に手を合わせる。誰も見ていないところで、正しいことをする。そうした小さな行いを積み重ねる人こそ、いざという時に動じない。
宮司は、暴虎馮河の教えを読むたびに、孔子の厳しさと温かさを感じる。孔子は、若者の気迫を否定したのではない。命を懸ける心を否定したのでもない。ただ、その気迫を道に結んでほしいと願ったのである。その覚悟を知恵に結び、その命を無駄に散らさないでほしいと願ったのである。
勇気は、乱暴でなく。覚悟は、無責任でなく。志は、慢心でなく。行動は、清められた心から出るものでありたい。
今日、私たちは何を備えるのか。今日、私たちは何を学ぶのか。今日、私たちは誰を守るのか。暴虎馮河の戒めは、古い言葉ではない。今を生きる私たち一人一人への問いである。
いま、怒りや焦りを抱えている方へ。その心を、まず神前の静けさに預けてみてください。
皆さまの勇気が、大切な人を守る静かな力となりますように。宮司も、心からお祈りしております。
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甦れ、日本。
甦れ、蛮勇を退け、真の勇気を知り、心を清め、備えを重ね、静かに正しく立つ日本人の心。甦れ、暴力ではなく礼節をもって、無謀ではなく覚悟をもって、次の時代を支えていく大和魂。