『古事記』は、千三百年前に記されてから、常に同じ意味で読まれてきたわけではない。
古典と聞くと、答えがすでに定まった書物だと、多くの人は思い込んでいる。開けば正解が書いてあり、読めばそれで理解が完結する。宮司は、この理解こそが、古典を遠ざける最大の誤解だと思う。
実際には、書物は残っても、その読み方や言葉の解釈は、時代とともに移り変わってきた。写本が幾度も書き写される過程で、字句には揺れが生じる。音の読み方一つをとっても、確定しているわけではない。神々の名、地名、動詞の活用、そのひとつひとつが、後世の学者による註釈と考証を経て、ようやく今日の読みに至っている。
宝暦十三年、伊勢松坂の一夜がある。若き医師、本居宣長は、当代随一の国学者・賀茂真淵と、ただ一度だけ相まみえた。旅の途中の真淵を宿に訪ね、夜を徹して語り合ったと伝えられる。この一夜、真淵は宣長に、『古事記』の研究を志すよう説いた。ただし、真淵自身は、すでに老いていた。「私の目の黒いうちには、とても成らぬであろう。だが、気長く、一歩ずつ、暗くなってから道を照らす提灯のように、少しずつ進んでゆきなさい」。この言葉を、宣長は生涯忘れなかった。
その夜から三十五年である。宣長は、松坂の一室で、医業のかたわら、来る日も来る日も『古事記』と向き合い続けた。当時の『古事記』は、すでに漢意に染まり、原文がどのように読まれていたのか、誰にも分からなくなっていた。手がかりは、乱れた写本と、断片的な注釈のみである。宣長は、一字一句を疑い、比較し、時に一つの文字の読みを定めるためだけに、幾年もを費やした。『古事記伝』全四十四巻が完成したのは、寛政十年、宣長六十九歳のときである。真淵との一夜から、実に三十五年の歳月が流れていた。
宮司は、ここに深く胸を打たれる。三十五年という歳月は、人の一生のうちの、最も脂の乗った時期のほとんどすべてである。その全てを、一冊の古典に注ぎ込んだ人間がいた。損得ではない。名声でもない。ただ、先人が遺した言葉を、正しく次代へ手渡したいという、ひとすじの志だけが、その歳月を支えたのである。
宣長は、こう詠んだ。
しき嶋の 大和心を 人問はば
朝日ににほふ 山ざくら花
利害や理屈で説明できるものではない。ただ、朝日に照り映える山桜のように、おのずと匂い立つもの。それが大和心であると、宣長は詠んだ。宮司は、この一首に、宣長が三十五年をかけて掘り起こした国の心の姿を見る。理屈で武装する前に、まず美しいものを美しいと感じる心。それこそが、宣長が『古事記』の奥底から救い出そうとした、日本人の原点であった。
今、私たちが当たり前のように読んでいる『古事記』の神名や文章は、原文があり、写本があり、註釈があり、江戸期の研究があり、近代以降の研究が積み重なった、その果てに立っている。一つの文字の奥に、幾世代もの学者の労苦と、燃えるような志が眠っているのである。
古典を、昔の答えが書いてある本だと思ってしまうと、幾人もの先人が命を削るようにして守り、手渡してきた営みそのものが、見えにくくなってしまう。宣長以後も、『古事記』の研究は止まらなかった。近代の国学者、そして今日の研究者たちも、同じ一文を前に、なお新しい光を当て続けている。同じ文章を読んでも、時代が進めば見え方が変わる。これこそが、古典が古典であり続ける理由である。
この姿勢は、現代の学びにも通じる。今の世は、答えを早く手に入れることばかりが急がれる。検索すれば、すぐに何かが出てくる。だが、その手軽さの中で、私たちは、一つの言葉と長く向き合うという営みを、少しずつ失ってはいないだろうか。三十五年をかけて一書と向き合った人間がいたことを、宮司は、今の時代にこそ、強く伝えたい。
宮司は、ここに大きな示唆を見る。学びとは、正解を受け取ることではない。一つの言葉、一つの教えと、生涯をかけて向き合い続けることである。宣長が『古事記伝』に注いだ三十五年は、まさにその姿を体現している。
日々の生活の中でも、同じことが言えよう。親の教え、師の言葉、先人の生き方、そうしたものを、若い頃に一度理解したからといって、そこで学びが終わるわけではない。同じ教えでも、年齢を重ね、経験を積むごとに、見え方は変わっていく。かつて聞き流していた一言が、ある日突然、重みを持って迫ってくることがある。それもまた、学びが終わらないということの証しである。
宣長は、松坂の一夜に受け取った小さな灯を、三十五年かけて、一つの巨大な光へと育て上げた。その光は、今もなお、私たちの手元を照らしている。今度は、私たちがその灯を受け取り、次の世代へ手渡す番である。
今こそ、古典と静かに向き合う時間を、日々のどこかに取り戻してみたい。一冊の書を、生涯をかけて読み続けるという構えを、若い世代へも伝えていきたい。
難しい本でなくても構いません。心に残る一行を、何度も読み返す。それも立派な学びです。
宮司は、神前に手を合わせるたびに、先人が積み重ねてきた学びの労苦と、その志の熱に、深く思いを致す。そして、この国の言葉と歴史が、これからも問い直され、次の世代へと手渡されていくことを、静かに祈るのである。
皆さまの学びの道が、生涯を通じて、豊かに続いてゆきますように。宮司も、心からお祈りしております。
目次
古事記と本居宣長を、もう一歩深く読む
この記事を読み、古典と向き合う一歩を踏み出したい方へ、テーマに沿う三冊を選んだ。まずは、今の自分の問いに近い一冊から手に取っていただきたい。