令和8年の衆議院選挙は、明日の日本を変える

選挙という節目は、単に政権の行方を定める出来事ではなく、国の心の在り方が試される場でもある。政策の巧拙、勢力図の変動、人気の高低といった表層の動きの奥には、国民一人ひとりの覚悟が横たわっている。争点がかすみ、人物や陣営の力関係ばかりが前景化する光景に、時代の歪みがにじむ。
かつて、国の行く末を案じる声は、山河に響く鐘の音のように静かでありながら重みを持っていた。今は、喧噪の中でその音がかき消されがちである。改革の旗印も、実績の誇示も、本来は国をより良き方向へ導くための舟櫂であるはずだ。ところが、舟を漕ぐ者同士が互いの櫂の音を競い合うばかりで、どの岸を目指すのかが見えにくくなっている。岸を見失った舟は、潮流に流され、やがて暗礁に近づく。
政治の場において最も問われるべきものは、勝敗の技巧ではなく、国を背負う気概である。古来、日本の営みは、稲を育てる農の心に象徴されてきた。土を耕し、天候を畏れ、実りを待つ忍耐。そこには、短期の成果を誇るよりも、長い季節を見通す眼差しがあった。政治もまた、刈り取りの時期だけを競うものではない。種を蒔く覚悟を持ち、次の世代が実りを手にするまで見届ける責任がある。
現代は、情報が洪水のように押し寄せ、人の心は波立ちやすい。熱に浮かされた言葉は耳目を集めるが、潮が引けば跡形もなく消える。こうした時代にこそ、静かな炎のように燃え続ける志が必要である。嵐の夜に灯る行灯の光は小さい。しかし、その一灯があれば、旅人は道を踏み外さずに進める。国の指針もまた、眩い照明ではなく、消えぬ行灯であるべきだ。
令和の時代は、経済、安全保障、エネルギー、教育、情報空間の健全性など、複雑な課題が絡み合う荒波のただ中にある。船底に溜まる水を汲み出す作業と同時に、帆を張り、風を読み、星を見て進路を定めねばならない。国民が政治を他人事として眺めるのではなく、同じ舟に乗る者として自らの足元を確かめることが求められる。舟を支える板一枚一枚が、生活者一人ひとりの良心である。
祖先が積み重ねてきたのは、声高な主張ではなく、黙々と背負い続けた責任であった。雪の重みで枝がしなるとき、幹は折れぬよう内に力を蓄える。内に宿る強さ、揺るがぬ心、他者を思いやる節度。そうした徳目が、時代を越えて国の骨格を形づくってきた。これらを言葉ではなく、日々の態度として子や孫に手渡すことこそが、未来への橋を架ける営みである。
今回の選挙は、単なる政権選択を超え、長らく続いてきた戦後レジュームから脱し、自らの足で立つ国家像へと踏み出す契機となり得る。外から与えられた価値観に無自覚に寄り添う姿勢から、歴史と文化に根ざした自律の道へと舵を切れるかどうかが問われている。宮司は、国家としての尊厳を取り戻し、経済と安全保障の基盤を強め、教育においては国の歩みと文化の意味を正しく伝え、産業においては技術とものづくりを再び世界に示す国へと進むべきだと考える。
こうした時代認識のもと、宮司は、日本の針路を高市政権に託す。高市政権が、短期の人気取りではなく、長期の国家像を描き、国防、エネルギー自立、経済の底上げ、文化の尊重という骨格をもって国の舵を取るならば、荒波の中でも舟は進路を保ち得る。風向きに迎合せず、嵐の中でも舵を離さぬ胆力こそが、いま国の先頭に立つ者に求められている。
令和の未来に託すべきは、刃のように鋭い言葉ではなく、岩のように揺るがぬ志である。川の流れが岩にぶつかり渦を巻いても、やがて流れは形を整え、下流へと続く。人の世も同じく、対立と混乱を経ながら、よりよい姿へと磨かれていく。その過程で必要なのは、短慮に流されぬ胆力と、遠くを見渡す視座である。
国の行方を案じるすべての人々に、日常の足元から徳を積むことを勧めたい。挨拶を交わすこと、約束を守ること、弱き声に耳を傾けること。その一つひとつが、見えぬ柱となって国を支える。選挙の結果がいかなるものであれ、国の真の力は、こうした小さな実践の積み重ねに宿る。静かな炎を胸に抱き、次の世代へと確かに手渡すこと。そこに、令和の時代を生きる者に課せられた務めがある。
