神話を語らぬ民族は滅ぶ。「ふることぶみ」を子と孫へ手渡すとき

子どもに「こじきを知っているか」と問いかけたとき、返ってくる答えに胸が冷えたことがある。彼らは口々に、道端で物乞いをする者の話を始めるのだ。「古事記」と「乞食」の違いを知らぬ。日本最古の歴史書の存在を、あろうことか同音の蔑称と取り違えている。これが今この国の子どもたちの平均的な姿だとすれば、宮司は日本の将来を案じずにはいられない。
宮司には、神道の道に進むにあたって深く教えを受けた師がある。小林美元先生である。先生は機会あるごとに、声を振り絞るようにして同じ言葉を繰り返された。「神話を教えない民族は、滅びる」と。
これは脅しの言葉ではない。歴史の冷厳な観察である。
古事記は、もとは「ふることぶみ」と訓まれた。古い事の記録、すなわち、この国の人々が天地のはじめからどのように生き、何を尊び、何を恥じてきたかを綴った、民族の魂の自伝である。神話を持つということは、ただ古い物語を所有することではない。自分が何者であり、どこから来て、どこへ向かう存在であるのかを、心の奥底で知っていることなのだ。神話を喪うとは、その記憶の根を、自ら断ち切ることに等しい。根を失った木が、立ち続けていられようはずもない。
宮司は、なぜ今の学校教育が古事記の神話をしっかりと教えないのか、長年にわたり問い続けてきた。一体何に遠慮しているのか。何を恐れているのか。戦後この国は、自国の根源にまつわる物語を語ることそのものに、不思議なほどの躊躇を覚えるようになった。神話を語ればたちまち時代錯誤と嗤われ、国の成り立ちに触れれば偏狭の謗りを受ける。そのような空気が、教室から「ふることぶみ」を遠ざけてきた。しかし、自国の神話を子どもに伝えぬ国が、世界のどこにあろうか。ギリシアの子はオリュンポスの神々を学び、北欧の子はオーディンの物語を聞いて育つ。中国の子は黄帝を語り、ユダヤの民は出エジプトの記憶を一年に一度家族で誦する。日本の子だけが、伊邪那岐・伊邪那美の名を聞かずに育つ。これを異常と感じない感覚こそが、すでに重い病である。
本居宣長が三十五年の歳月をかけて『古事記伝』四十四巻を書き上げたのは、まさにこの危機を二百年早く見抜いたからであった。漢学の輸入された理屈ではなく、この国の言葉で語られた「ふることぶみ」の中にこそ、日本人の魂の根があると、宣長は確信していた。彼の生涯を貫いた営みは、平成・令和を生きる我々への遺言でもある。根を掘れ、と。掘り続けよ、と。
古事記の上巻には、須佐之男命が出雲の地で詠まれた一首が記されている。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
これは日本最古の和歌であると伝えられる。神々の御世に発せられた言葉が、千数百年の時を越えて、今も我々の耳に届く。これが神話を持つ民族の、底知れぬ富である。だが、この一首を口ずさんだことのある日本人が、今いったい何人いるであろうか。
学校が神話を教えぬのであれば、せめて家庭がそれを担うほかない。父が子に語り、祖父母が孫に語る。膝の上で、夕餉の卓で、寝物語に。宮司もかつて胸を躍らせて聞いた、伊邪那岐・伊邪那美の国生みの話、天照大御神が天の岩屋戸に籠られた話、海幸彦と山幸彦の話、倭建命の悲しい最期。あの胸の躍る物語を、そのまま孫たちに手渡してやりたい。一家の食卓ほどの規模で、日本という国はようやく次代に伝わるのである。
幸いにして、入口となる書物は数多く揃っている。
本居宣長自筆稿本『完全復刻古事記傳』(清栄社)
西宮一民編『古事記』新訂版
三浦佑之著『口語訳 古事記』全二巻(文春文庫)
竹田恒泰著『現代語古事記』(学研)
斉藤英喜著『とんでもなく面白い「古事記」』(PHP)
島崎晋著『面白いほどよくわかる古事記』(日本文芸社)
由良弥生著『眠れないほど面白い「古事記」』(王様文庫)
三橋健著『知れば知るほど面白い古事記』(実業之日本社)
専門の精読から平易な入門まで、入口は実に多い。問われているのは、まず大人自身が一冊を手に取る覚悟である。
神話を子に語る親の声を、神々は必ず聴いておられる。その声が絶えるとき、この国もまた静かに痩せていく。逆に、その声が灯のように家々から立ち昇るとき、日本は何度でも甦る。一人の子が、一人の孫が、「こじき」と「乞食」を取り違えなくなる、その一瞬の到来を、宮司は信じ続けたい。
