刃を磨く者よ、世界と対等に立て。陸奥宗光の大和魂が令和に問うもの

幕末という時代は、日本という国を根底から揺さぶった嵐の季節であった。黒船の砲声が轟き、百年をかけて築き上げた武家の秩序が一夜にして崩れ去り、何が正しく何が間違いかも定まらぬまま、人は走り続けなければならなかった。
その嵐の中を、一人の若者が泳いだ。
陸奥宗光。天保十五年(一八四四年)、紀州藩士の六男として生まれたこの男は、小柄で青白く、口が悪く、何事も理詰めで相手を追い詰める性格から、周囲との衝突が絶えなかった。生意気な小僧。しかし、その刃のような鋭さは、見る者が見れば、紛れもない天賦の才であった。
そのことを見抜いたのが、坂本龍馬であった。
龍馬は宗光を手元に引き寄せ、海援隊の商務担当として使いこなした。「刀を二本差さなくても食っていけるのは俺とお前だけだ」——龍馬はそう言ったという。この一言の中に、宗光という人物の全てが凝縮されている。武士の時代に武士の型にはまらず、知恵と胆力で世界を渡れる人間。それが宗光であった。
しかし慶応三年(一八六七年)、龍馬が近江屋の二階で凶刃に倒れた。
この時、宗光は最も早く駆けつけ、独自に調査を行い、天満屋事件として復讐に動いた。剣術に秀でているわけでもない若者が、ただ義侠の一念で動いた。その背骨には、損得ではなく、義があった。
宮司はここに、大和魂の一端を見る。
維新後の宗光の道は、決して平坦ではなかった。薩摩・長州という藩閥の壁は厚く、紀州出身の彼を冷遇した。板垣退助の自由民権運動に共鳴し、やがて政府転覆の謀議に加担した疑いで禁獄五年の刑を受けた。獄中において、宗光は読書と思索に没頭した。手枷をかけられた状況の中で、刃を研ぎ続けた。
明治十六年(一八八三年)、伊藤博文の奔走によって特赦となった宗光は、伊藤の勧めに従いヨーロッパへ留学した。イギリスで近代民主主義の仕組みを学び、議会の運営を学び、世界が何を以て動いているかを、肌で体得した。
宮司はここに、もう一つの大和魂を見る。
敗れても腐らない。獄の中でも刃を研ぎ続ける。逆境を嘆くのではなく、逆境を糧に変える。その精神は、葉隠が説く「武士道とは死ぬことと見つけたり」の奥にある、生き切ることの覚悟と同根である。
帰国した宗光が外務大臣として打ち込んだのは、幕末以来の悲願であった不平等条約の改正であった。
嘉永六年(一八五三年)のペリー来航以来、日本は列強と結んだ条約によって、関税自主権を失い、外国人に治外法権を認め続けてきた。これは屈辱であった。単なる政治的屈辱ではなく、日本という国の尊厳が踏みにじられ続けていた日々であった。
明治二十七年(一八九四年)、陸奥宗光はイギリスをはじめとする十五カ国と平等条約の改正に成功した。四十年に及ぶ悲願が、ついに成就した瞬間であった。
世界と対等に立つ。それは当たり前のことではなかった。先人たちが血と汗と屈辱を重ねた果てに、ようやく摑み取ったものであった。宗光はその先頭に立ち、カミソリのような知性と胆力で、世界と渡り合った。
令和の今、宮司は問わざるを得ない。
あの宗光が果たした「世界と対等に立つ」という精神は、今の日本に息づいているか、と。
国際社会の舞台で、日本は毅然と己の主張を展開しているか。他国の圧力に屈することなく、誇りある外交の道を歩んでいるか。先人が命をかけて勝ち取った対等の立場を、今の時代の日本人は大切に守り抜いているか。
宮司は断じて、声高に誰かを責めたいわけではない。しかし問わねばならない。陸奥宗光という人物を通じて歴史が私たちに問いかけているのは、「あなたは今、世界に対して胸を張れるか」ということである。
宗光は子に「六訓」を遺した。
その第四訓に言う。
「人より少なく苦労して人より多くの利益を得ようとするのは薄志弱行の者のやることだ。この考えが一度芽生えると、必ず生涯不愉快の境遇に陥る」と。
令和の時代、この言葉は鋭く刺さる。効率を求め、近道を探し、苦労を避け、快適さの中に沈んでいく。それは人間として当然の欲求でもある。しかし、それだけでは人は育たない。国も育たない。苦労の中でこそ、人は本物の力を身につける。炎の中で鋼は鍛えられる。
また第五訓には言う。「人生には危険が多い。避けられるだけは避けよ。しかし、避けられぬ場合、また避けては一分が立たない場合はいかなる危険も避けるな」と。
逃げるべき時は逃げよ。しかし退いてはならない場では、命を賭けて前へ出よ。この峻別こそが、人としての骨格を決める。
宗光の妻、亮子もまた稀有な人物であった。
夫が入獄している間、前妻の子どもたちを含む家族を守り抜き、駐米公使として渡米した夫の傍らで、ワシントンの社交界に「日本の誇り」を示した。美貌だけでなく、その知性と気品によって、「ワシントン社交界の華」と称された。
夫の刃の鋭さを支えたのは、妻の揺るぎない誠実さであった。宮司は、偉大な男の背後に、必ずと言っていいほど、偉大な女性の存在があることを知っている。それもまた、日本が誇るべき大和の姿である。
陸奥宗光は明治三十年(一八九七年)、五十四歳でこの世を去った。肺結核という病が、その切れ者の命を早く奪った。しかし宗光が遺したものは、条約改正の実績だけではない。
どれほど冷遇されても、どれほど逆境に置かれても、己の刃を研ぎ続けること。そして、その刃をもって、国の誇りのために使うこと。
それが宗光という人物の、全生涯を貫く一本の筋であった。
宮司は思う。大和魂とは、勇ましい言葉を叫ぶことではない。どんな境遇の中でも己を磨き続け、国と人のために己の全てを尽くすこと。苦労を厭わず、義のためには危険を恐れず、世界に対して胸を張れる人間であり続けること。
その精神は、幕末の志士たちから令和の私たちへ、確かに手渡されている。受け取るかどうかは、私たち一人ひとりの心が決める。
令和を生きる日本人よ。陸奥宗光の生涯が語りかける問いを、静かに胸の中で受け止めてほしい。「あなたは今、己の刃を磨いているか」と。
陸奥宗光について
天保十五年(一八四四年)、紀州藩士・伊達千広の六男として生まれる。幕末には坂本龍馬の海援隊に参加。明治維新後、板垣退助の自由民権運動に関与して禁獄五年の刑を受けるも、伊藤博文の働きかけで特赦。ヨーロッパ留学を経て外務省に入り、第二次伊藤博文内閣の外務大臣として、明治二十七年(一八九四年)に十五カ国との不平等条約改正を成し遂げた。その鋭い知性と弁舌から「カミソリ陸奥」と呼ばれた。明治三十年(一八九七年)、肺結核のため五十四歳にて逝去。
