ゴミを拾う心に宿る、日本人の誇り

ワールドカップのたびに、日本人サポーターの姿が世界で話題になる。
試合が終わった後、スタジアムの座席に残されたゴミを拾う。選手たちはロッカールームを綺麗に整え、感謝の言葉を残して去る。勝っても負けても、使わせていただいた場所を清めて帰る。その姿に、世界の人々が驚き、称賛する。
宮司は、この話を聞くたびに思う。
これは単なるマナーではない。
これは、日本人の魂の表れである。
チュニジア戦の前日、森保一監督がブラジル人記者から、日本人のゴミ拾いや片付けについて質問を受けたという。森保監督は、それを「日本が世界に誇れる文化」と語ったそうである。
そして、かつてブラジル人の指導者やスタッフから、「ゴミを拾ったら、ゴミを拾う人の仕事がなくなるではないか」と言われたことがあるとも語っていた。
宮司は、この言葉にも考えさせられる。
確かに、世界には世界の考え方がある。仕事には役割があり、担当があり、責任がある。掃除を仕事としている人がいる。用具を管理する人がいる。グラウンドを整える人がいる。その仕事を軽んじてはならない。日本人が善意で手を出したことが、相手の職分を乱すように受け止められることもあるのかもしれない。
だから、相手の文化や考え方を知らずに、ただ自分たちだけが正しいと思ってはならない。
しかし、それでもなお、宮司は思う。
気づいた人が動く。
使った人が片付ける。
汚れていたら拾う。
困っている人がいれば手伝う。
この心は、やはり日本人が世界に誇るべき美徳である。
ゴミを拾う人の仕事を奪うのではない。掃除をしてくださる人への感謝として、自分にできることをするのである。用具係の仕事を奪うのではない。用具を大切に扱い、共に場を整える心を示すのである。
仕事とは、ただ分担だけで成り立つものではない。
そこには、敬意がなければならない。
感謝がなければならない。
助け合いがなければならない。
森保監督が語ったように、日本人は、ボールを片付ける。ゴールを運ぶ。スパイクを揃える。練習後に芝を落とす。誰か一人の仕事だから自分は知らない、という態度ではなく、みんなで場を整える。
そこに、日本人の「和」の精神がある。
「和」とは、ただ仲良くすることではない。自分の役割だけを守って、他人のことは知らないという冷たい区切りを越えて、互いに支え合うことである。自分の手が空いていれば手伝う。目の前に落ちているものがあれば拾う。使わせていただいた場所には礼を尽くす。
それは、神道の清めにも通じる。
神社では、掃除を大切にする。境内を掃く。玉砂利を整える。落ち葉を集める。拝殿を清める。これは、ただ見た目を綺麗にするためだけではない。場を清めることは、心を清めることだからである。
汚れた場所に立てば、心も乱れる。
整った場所に立てば、心も整う。
場を整えることは、自分の心を整えることであり、次に来る人への思いやりでもある。
日本人サポーターがスタジアムでゴミを拾う姿を、世界は不思議そうに見る。なぜそこまでするのか。誰に命じられたわけでもないのに、なぜ片付けるのか。負けた後でさえ、なぜ落ちているゴミを拾うのか。
その答えは、難しい理屈ではない。
使わせていただいた場所だからである。
次に使う人がいるからである。
そこにゴミが落ちているのを見過ごすと、自分の心が落ち着かないからである。
これが、日本人の感覚である。
もちろん、すべての日本人がいつもそうであるとは限らない。今の日本にも、街にゴミを捨てる人はいる。公共の場を汚す人もいる。自分さえよければよいという心も、残念ながら広がっている。だからこそ、宮司は、この日本代表やサポーターの姿を、ただ海外から褒められた話として喜ぶだけで終わらせてはならないと思う。
これは、今の日本人自身への問いである。
私たちは、日々の暮らしの中で、気づいた時に動いているか。
誰かがやるだろうと見過ごしていないか。
自分の仕事ではないと言って、手を引いていないか。
公共の場を、自分の家と同じように大切にしているか。
宮司は、ここに日本社会が取り戻すべき大切な精神があると思う。
現代社会は、便利になった。仕事は細かく分けられ、専門化され、効率が重んじられる。それ自体は悪いことではない。専門の仕事を尊ぶことは大切である。掃除をしてくださる方、用具を管理してくださる方、施設を整えてくださる方。その働きがあるから、私たちは安心して場を使うことができる。
しかし、専門の人がいるから自分は何もしなくてよい、という心になってはならない。
誰かの仕事だから汚してもよい。
係の人が片付けるから散らかしてもよい。
自分が払った金の中に清掃費も入っているのだから、自分には関係ない。
このような心が広がれば、社会は荒れる。
場所が荒れる前に、心が荒れているのである。
日本人の美しさは、「自分の責任ではない」と言い切らないところにあった。自分が落としたゴミでなくても拾う。自分が使った道具でなくても整える。自分だけが得をするわけでなくても手伝う。そこに、公の心がある。
公とは、国や役所だけのことではない。
みんなが使う場所。
みんなが生きる社会。
次の人のために残す場。
それを自分のこととして大切にする心である。
この公の心が薄れると、社会は冷たくなる。人は権利ばかりを言い、義務を忘れる。便利さばかりを求め、感謝を忘れる。自分の領分だけを守り、隣の人の苦労を見なくなる。
その時、日本人の心は小さくなる。
森保監督の言葉が尊いのは、ただ日本文化を誇ったからではない。相手の考え方に驚きながらも、それを頭から否定せず、その上で、日本人は助け合う民族だと語ったところにある。
誇りとは、他国を見下すことではない。
誇りとは、自分たちの良さを知り、それを静かに守り、次の世代へ手渡すことである。
日本人は、使った場所を清めて帰る民族である。
人の仕事を奪うためではない。
感謝を形にするためである。
場を大切にするためである。
次に来る人を思うためである。
そして、自分の心を曇らせないためである。
子供たちにも、この心を伝えたい。
落ちているゴミを見たら拾う。使った椅子は戻す。食べた後は片付ける。靴を揃える。道具を大切にする。誰かが困っていたら手を貸す。小さなことでよい。むしろ、小さなことこそ大切である。
大和魂とは、声高に叫ぶものだけではない。
大和魂とは、日々の小さな行いの中に宿る。
人が見ていなくても整える心。
誰かのために一手間を惜しまない心。
自分の場所ではない場所にも礼を尽くす心。
勝って驕らず、負けて乱れず、使わせていただいた場に感謝して去る心。
それこそ、日本人が世界に示している美しい精神である。
世界は、日本の技術や経済だけを見ているのではない。日本人のふるまいを見ている。試合の勝敗だけでなく、負けた後の姿を見ている。強い時だけでなく、苦しい時の立ち居振る舞いを見ている。
ロッカールームを綺麗にして帰る選手たち。
スタジアムのゴミを拾うサポーターたち。
用具をみんなで片付けるスタッフたち。
その一つ一つが、日本という国の名刺になっている。
宮司は思う。
日本人は、もっと自分たちの精神文化に自信を持ってよい。
礼を尽くすこと。
場を清めること。
人を助けること。
気づいた人が動くこと。
こうした心は、古くさいものではない。これからの世界にこそ必要なものである。分断が進み、権利ばかりが叫ばれ、社会が冷たくなりつつある時代だからこそ、日本人の「お互いさま」の心、「おかげさま」の心、「使わせていただく」という心が、世界に温かな光を投げかける。
日本社会もまた、この心をもう一度取り戻さねばならない。
家庭で、学校で、職場で、地域で、気づいた人が動く。誰かの仕事だと突き放すのではなく、敬意を持って手伝う。場を汚さない。使ったものを整える。人の見えないところでこそ、心を正す。
その小さな積み重ねが、国の品格をつくる。
ゴミを拾うという一つの行いの中に、日本人の精神がある。
それは、清めである。
それは、感謝である。
それは、助け合いである。
それは、公を思う心である。
世界に誇るとは、大きな声で自慢することではない。誰に見られていなくても、当たり前のことを当たり前にすることである。その姿を見た世界の人々が、自然と日本を尊ぶようになる。それこそ、本当の誇りである。
日本人よ、足元を見よ。
落ちている一つのゴミを見よ。
乱れた一つの椅子を見よ。
困っている一人の姿を見よ。
そこに、今日の自分がなすべきことがある。
大げさなことを言わなくてもよい。文化を守る、伝統を継ぐ、国を背負うなどと、初めから大きな言葉を掲げなくてもよい。まず、気づいた時に動くことである。使ったものを整えることである。誰かの負担を少し軽くすることである。
その一歩の中に、日本の精神は生きている。
そして、その静かな一歩を積み重ねる人が増える時、日本はもう一度、世界から尊敬される国になる。
