不条理の世を歩く。八十四歳の背中が令和の日本人に語るもの

この世は、まことに不条理である。
人は、誠を尽くしても裏切られることがある。信じた相手から思わぬ仕打ちを受けることがある。正しいと信じて歩んできた道の上で、大きな借金を背負い、胸の奥が押し潰されるような苦しみに立たされることもある。
人生は、意に沿わぬことばかりである。
しかし宮司は思う。不条理とは、ただ人を苦しめるためにあるのではない。不条理の中でこそ、人は己の魂を問われる。何のために生きるのか。何を守るのか。誰のために祈るのか。その問いから逃げずに立つところに、人間の真価が現れる。
宮司にとって困難とは何か。それは、人生の道を閉ざす壁ではない。むしろ、人を次の境地へ進ませるために現れる「関」である。かつて旅人が関所を越えて初めて新しい国へ入ったように、人もまた困難という関を越えて、初めて新しい自分に出会うことができる。
葉隠は、困難に遭っても動じないだけでは足りないと教える。大きな変事に出会ったならば、むしろ喜び、勇んで進むべきであるという。その心を、宮司は深く受け止めている。
困難を耐えるだけなら、人はまだ困難を不幸として見ている。だが、困難を喜ぶところまで心が定まれば、その困難は不幸ではなくなる。己を鍛え、魂を磨き、志を本物にするための天の計らいとなる。
「水増されば船高し」という言葉がある。水が増せば、船は沈むのではない。水に応じて、船は高く浮かぶ。人もまた同じである。大きな困難に出会ったとき、それに押し潰されるか、それによって高く上がるかは、その人の心の構えによって決まる。
宮司は、困難を取り除いてほしいとは祈らない。困難を乗り越える力を授けてほしいと祈る。神は、逃げる者の後ろに立たれるのではない。前へ進もうとする者の傍らに立たれる。宮司は、そう信じている。
宮司は今、二千日の道に挑んでいる。令和七年十二月十六日、宮司は千日にわたる回峰行を満願した。小さな歩みを重ねた千日であった。しかし、その千日は終着点ではなかった。むしろ、さらに深く祈り、さらに己を鍛え、さらに日本の未来へ心を向けるための、新たな出発点であった。
宮司は毎朝二時に起きる。初夏の夜明け前である。冬のような厳しい寒さはない。山の草木は湿り気を帯び、闇の中にも生命の気配が静かに満ちている。世の多くがまだ眠っている刻限に、宮司は身を整え、愛妻デミさんの弁当を携え、十五キロの道へ出る。
八十四歳の身体は、決して軽くはない。膝も、腰も、足も、年齢を正直に告げてくる。だが宮司は、その身体に活を入れる。神前に立つ者として、まず己を正さねばならない。祈りを語る者が、自らの足で祈りを刻まねばならない。そう思うからである。
これは散歩ではない。修行である。一歩一歩、大地を踏みしめる。その歩みの中で、宮司は己の弱さとも向き合う。今日は休んでもよいのではないか。ここまで続けたのだから、もう十分ではないか。そのような声が胸の奥に浮かぶ日もある。
しかし、そこで足を止めれば、祈りもまた止まる。宮司は知っている。志は、一日の熱情だけでは続かない。人の見ていないところで、誰に褒められるわけでもなく、ただ黙々と積み重ねる。その小さな実践の連続こそが、人の魂を磨くのである。
人は、裏切られることがある。借金を背負うこともある。理不尽に泣く夜もある。老いもある。病もある。別れもある。
それでも、人は生きていかなければならない。
宮司は思う。生きるとは、ただ息をすることではない。己の魂を曇らせず、今日なすべき務めを果たすことである。天を恨まず、人を恨まず、腐らず、投げ出さず、一歩を重ねることである。
令和の日本人に、宮司はその歩みをもって語りかけている。
諦めてはならない。歩みを止めてはならない。祈りを捨ててはならない。今日の一歩を軽んじてはならない。
千日の道は満ちた。しかし、祈りの道は終わらない。
宮司は今日も歩く。二千日へ向かって歩く。八十四歳の身体に活を入れ、デミさんの弁当を携え、初夏の夜明け前の道を歩く。その一歩一歩が、令和の日本人に問いかけている。人は、倒れてもまた立てる。
