国旗を守るとは、日本人の魂を未来へ繋ぐことである

共同通信は、令和8年6月25日、中道改革連合、立憲民主、公明の3党が、日本国旗損壊罪法案に反対する方針を固めたと報じた。報道によれば、この法案は、自民、日本維新の会、国民民主、参政の4党が共同提出したものであり、日本国旗を損壊する行為を罪に問うことを目的とするものであるという。

宮司は、この報道に接し、深く考えさせられた。

これは、単なる与野党の対立ではない。

これは、刑罰の重い軽いだけの問題でもない。

これは、日本人が日の丸をどのように見ているのか。

これは、私たちが祖国というものを、どれほど大切に思っているのか。

これは、次の世代に、日本を敬う心を手渡す覚悟があるのか。

そのことを、今を生きる日本人一人一人に問う出来事である。

国旗とは、ただの布ではない。白地に赤い丸が描かれた一枚の布としてだけ見れば、国旗の本質は見えない。そこには、祖先の祈りがある。山河を守り、田畑を耕し、家族を養い、祭りを続け、国難のたびに立ち上がってきた日本人の歩みがある。戦地に赴き、二度と故郷へ帰ることのなかった英霊の命がある。災害の中で助け合い、汗を流し、泣きながらも立ち上がってきた国民の記憶がある。

日の丸は、国家の権力だけを表すものではない。

日の丸は、日本という共同体の記憶である。

日の丸は、父母祖先から預かった国を、子や孫へ渡していくための、目に見える祈りである。

もちろん、政治に対する批判はあってよい。政府を批判する自由は、民主主義の大切な柱である。政治家の誤りを指摘し、政策に反対し、国の行く末を議論することは、国民の権利であり、また責任でもある。宮司は、異論を封じよと言っているのではない。国民がものを言えなくなる国を、健全な国とは思わない。

しかし、政府への批判と、国旗を傷つけることは違う。

政治家への怒りと、祖国そのものを辱めることは違う。

政策への反対と、国民全体の象徴を踏みにじることは違う。

この区別を失った時、国は内側から崩れていく。怒りの矛先を、祖国の象徴へ向けてよいと考えるならば、その先に何が残るのか。互いに違う意見を持ちながらも、最後には同じ国民として立つための土台が失われてしまうではないか。

宮司は思う。国旗を守るということは、誰かに憎しみを向けることではない。国旗を守るということは、日本を大切にする心の最低限の礼節を守ることである。

私たちは、神社において御神前に頭を下げる。そこにあるのは、恐怖ではない。強制でもない。畏れである。自分よりも大きなものに対する慎みである。父母祖先、天地自然、神々、地域、国家。自分一人の力では生きてこられなかったという感謝である。

国旗への敬意もまた、その心に通じる。日の丸に手を合わせよと言っているのではない。けれども、日の丸を見た時、自分がこの国に生まれ、この国の言葉を使い、この国の道を歩き、この国の人々に支えられて生きてきたという事実を、少しでも思い起こす心があってよいではないか。

戦後の日本は、国家を語ることに臆病になった。国旗を敬うと言えば、すぐに古い、危ない、偏っていると言われる空気があった。祖国を愛すると言えば、まるで他国を憎むかのように受け取られることもあった。だが、それは違う。

自分の家を大切にする者が、隣の家を憎んでいるわけではない。自分の父母を敬う者が、他人の父母を軽んじているわけではない。自分の国旗を大切にする者が、他国の国旗を辱めたいと思っているわけではない。

むしろ、自国の国旗を大切にできる者こそ、他国の国旗にも敬意を払うことができる。自分の祖先を敬う者こそ、他国の祖先の歩みにも慎みを持つことができる。自国の歴史に誇りを持つ者こそ、国際社会の中で卑屈にならず、傲慢にもならず、堂々と礼を尽くすことができるのである。

今回、3党が反対する方針を固めたという。反対する側には、表現の自由への懸念や、刑罰によって思想を縛ることへの警戒があるのかもしれない。法案には慎重な議論が必要であろう。どのような行為を対象とし、どのような要件で罪に問うのか。政治批判や芸術表現との線引きをどうするのか。国民の自由を守るために、法文は厳密でなければならない。

しかし、慎重論を語るならば、同時に語らねばならないことがある。それは、国旗を傷つける行為は決して軽いことではない、という明確な認識である。

法案に反対するならば、反対する者こそ、日の丸への敬意を国民に語る責任がある。刑罰には反対だが、国旗を損壊することは日本人の礼節に反すると、はっきり言うべきである。自由を守るために反対するというなら、その自由が祖国を辱める免許ではないことを、同時に示さねばならない。

ここを曖昧にしてはならない。

ただ反対だけを唱え、国旗への敬意を語らないならば、国民の心には不信が残る。日本という国を大切に思う多くの人々は、そこに冷たさを感じるであろう。自分たちの国旗が傷つけられても、それを大したことではないかのように扱う政治に、どうして国家の未来を託すことができようか。

宮司は、法律だけで日本が甦るとは思わない。

国旗損壊を罪に問う法律ができたとしても、それだけで日本人の心が一夜にして立ち直るわけではない。罰則は、社会の最低限の線を示すものである。だが、国を支えるのは、罰を恐れる心だけではない。国を支えるのは、誇りである。感謝である。礼節である。父母祖先に恥じぬ生き方をしようとする、静かな背骨である。

だからこそ、本当に必要なのは教育である。

家庭で、学校で、地域で、神社で、日の丸が何を意味するのかを語らねばならない。祝日に国旗を掲げる家が減った今だからこそ、なぜ昔の人々は旗を掲げたのかを、子供たちに伝えねばならない。国旗掲揚は、権力への服従ではない。今日という日を祖国とともに祝い、祖先とともに感謝し、未来へ祈る営みである。

子供たちに、日の丸を押しつける必要はない。

しかし、日の丸を恥じるように育ててはならない。

子供たちに、祖国を疑うことだけを教えてはならない。

祖国を愛し、同時に過ちを正すことのできる、健やかな日本人へ育てねばならない。

愛国とは、盲目になることではない。愛国とは、祖国の良きものを守り、足らざるところを正し、次の世代へ少しでも良い日本を渡そうとする心である。家族を愛する者が、家族の誤りを正すことがあるように、祖国を愛する者もまた、政治の誤りを正すことがある。だが、その根にあるのは憎しみではない。日本をより良くしたいという祈りである。

日の丸を傷つける者は、その祈りを見失っている。

日の丸を粗末に扱う政治家は、その祈りの重さを見失っている。

日の丸への敬意を語れない社会は、未来へ渡すべき魂の形を見失っている。

宮司は、神前に立つたびに思う。日本は、私たちの代だけの所有物ではない。祖先より預かり、子孫へ渡す国である。私たちがこの国を粗末にすれば、その痛みは未来の子供たちに及ぶ。私たちがこの国を敬えば、その誇りは未来の子供たちの背骨になる。

国旗を守るとは、布を守ることにとどまらない。

国旗を守るとは、日本人の心を守ることである。

国旗を守るとは、祖先への感謝を守ることである。

国旗を守るとは、未来の子供たちが胸を張って「私は日本人です」と言える国を守ることである。

いま、日本人は問われている。

祖国を愛することを、恥じるのか。

日の丸を敬うことを、古いと笑うのか。

それとも、戦後の長い迷いを越えて、もう一度、日本人としての背骨を立て直すのか。

宮司は、はっきりと言いたい。

日の丸を大切にしよう。

祖国を大切にしよう。

父母祖先から受け継いだ日本を、未来の子供たちへ、さらに美しく、さらに強く、さらに清らかな国として手渡そう。

法案の賛否を論じる前に、まず私たち一人一人が、日の丸の前で己の心を問うべきである。この旗を見て、何を思うのか。この国に生まれ、何を受け取ってきたのか。この国の未来のために、今日、自分は何を正し、何を守り、何を伝えるのか。

日の丸を仰ぐ時、私たちは日本人であることを思い出す。

その誇りを、もう一度、胸の真ん中に取り戻したい。

祖先に恥じず、子孫に恥じず、この国を愛し、この国を守る心を、静かに、しかし確かに、次の時代へ手渡していきたい。

共同通信「【速報】野党3党が国旗損壊罪法案反対へ」

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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