『詩経』衛風に、深く心に響く言葉がある。
切るが如く、磋くが如く、琢つが如く、磨ぐが如し。
石を切り出し、形を整え、さらに打ち、磨いていく。今日、私たちが使う「切磋琢磨」という言葉は、ここから生まれたものである。
宮司は、この言葉に日本人の修養の道を見る。
切磋琢磨とは、単に仲間同士で励まし合うことではない。互いに競争して成績を上げることでもない。まして、耳触りのよい応援の言葉として軽々しく用いるだけのものではない。
切る。
磋く。
琢つ。
磨く。
この一つ一つには、痛みがある。手間がある。時間がある。忍耐がある。荒い石がそのまま宝になることはない。硬い石を切り、余分なものを落とし、形を整え、さらに細かく磨いて初めて、内に秘められた光が現れる。
人間もまた同じである。
生まれたままの自分を、そのまま尊いと言うだけでは、人は完成しない。もちろん、命は尊い。誰もが神さまからいただいた唯一の命を持っている。しかし、命が尊いことと、己を磨かなくてよいことは違う。
人は、磨かねばならない。
心を磨かねばならない。
言葉を磨かねばならない。
行いを磨かねばならない。
志を磨かねばならない。
磨かれぬ心は、やがて濁る。磨かれぬ言葉は、人を傷つける。磨かれぬ行いは、周囲を乱す。磨かれぬ志は、ただの欲望に落ちていく。
宮司は、いまの日本を見渡すたびに、この「磨く」という営みが失われつつあることを憂う。
楽をしたい。傷つきたくない。叱られたくない。苦労したくない。努力せずに認められたい。そうした空気が、社会のあちこちに漂っている。教育の現場でも、家庭でも、政治の世界でも、厳しさを避け、耳障りのよい言葉だけで人を包もうとする風潮がある。
しかし、人間は甘い言葉だけでは育たない。
人を大切にすることと、人を甘やかすことは違う。
優しさとは、ただ痛みを避けさせることではない。真の優しさとは、その人が本来持っている光を信じ、時には厳しく、時には黙って見守りながら、磨かれる道へ導くことである。
石に鑿を当てる時、石は傷つく。しかし、その傷がなければ形は生まれない。砥石で磨く時、表面は削られる。しかし、その削りがなければ輝きは現れない。
人生の苦労もまた、同じである。
失敗は、人を削る。挫折は、人を打つ。叱責は、人の慢心を落とす。孤独は、人の内側を見つめさせる。不条理は、人に祈りを教える。痛みをすべて悪として遠ざけるならば、人はいつまでも荒石のままである。
宮司は思う。
苦労を知らぬ人間に、深みは生まれない。
叱られたことのない人間に、謙虚さは育ちにくい。
磨かれたことのない魂に、本当の光は宿らない。
もちろん、理不尽な暴力や、人を潰すような言葉を肯定しているのではない。人を傷つけるための厳しさは、厳しさではなく、ただの未熟である。だが、人を育てるための厳しさ、己を鍛えるための苦難、志を澄ませるための試練まで否定してしまえば、日本人の精神は弱っていく。
古来、日本人は修養を重んじてきた。
武士は刀を磨くように、己の心を磨いた。職人は道具を磨く前に、手を磨き、目を磨き、勘を磨いた。神職は毎朝、神前に向かう前に、心身を祓い清める。祓い清めとは、汚れたものをただ流すことではない。自分の内にある濁りを見つめ、神さまの前にふさわしい心へ整えていく営みである。
これもまた、切磋琢磨である。
神道の道は、磨きの道である。
朝、境内を掃く。手水で手を清める。祝詞を奏上する。玉串を捧げる。一つ一つは静かな所作である。しかし、その静けさの中で、人は少しずつ己を整えていく。昨日の怒りを鎮め、昨日の怠りを反省し、今日一日を清らかに始めようとする。
この繰り返しが、人をつくる。
一度の決意で人は変わらない。一度の感動で魂は磨かれない。毎日、毎日、少しずつでよい。言葉を正す。姿勢を正す。約束を守る。親に感謝する。祖先に手を合わせる。仕事を丁寧にする。弱い者に優しくする。国を思う。
その積み重ねが、人の形を整える。
その積み重ねが、魂を磨く。
切磋琢磨は、一人だけで完結するものでもない。
人は人によって磨かれる。よき師に出会い、よき友に出会い、時には厳しい相手に出会い、己の未熟さを知らされる。自分一人では見えない欠点を、他者との関わりの中で知る。そこで逃げるか、受け止めるか。ここに人生の分かれ道がある。
本当の友とは、ただ笑い合う相手ではない。
本当の師とは、ただ褒めてくれる人ではない。
本当の同志とは、互いを甘やかす者ではなく、互いの魂を磨き合う者である。
吉田松陰先生の松下村塾も、まさに切磋琢磨の場であった。あの小さな学び舎に集まった若者たちは、ただ知識を得たのではない。国を思う心を磨き、己の未熟を恥じ、命を懸けて時代に向き合う覚悟を鍛えたのである。
だからこそ、草莽の若者たちが歴史を動かした。
大きな建物が時代を動かしたのではない。
肩書が時代を動かしたのでもない。
磨かれた志が、時代を動かしたのである。
令和の日本にも、そのような場が必要である。家庭が、学校が、職場が、神社が、人を磨く場でなければならない。叱るべき時に叱り、励ますべき時に励まし、共に学び、共に祈り、共に己を正す。そういう場が失われれば、社会は表面的に優しく見えても、内側から弱っていく。
政治家にも、切磋琢磨が必要である。
国民に耳触りのよい言葉だけを語り、支持率だけを見て、責任を回避するような政治では、国は磨かれない。政治家こそ、自らを厳しく律し、歴史を学び、皇室を敬い、国民の暮らしを思い、国難に立ち向かう胆力を磨かねばならない。
メディアにも、切磋琢磨が必要である。
言葉を扱う者は、言葉を磨かねばならない。人を煽る言葉、人を貶める言葉、祖国を軽んじる言葉を垂れ流すならば、それは社会を磨くどころか、傷つけ、濁らせる。報道とは、国民の心を曇らせるためにあるのではない。真実を照らし、世を正すためにある。
教育にも、切磋琢磨が必要である。
子どもを傷つけまいとして、何も求めない教育は、子どもの可能性を小さくする。子どもには力がある。磨かれれば光る力がある。努力する喜び、耐える尊さ、礼節の美しさ、祖国を愛する誇りを教えなければならない。
宮司は若者に伝えたい。
磨かれることを恐れるな。
叱られることを恥じるな。
失敗することを終わりだと思うな。
石は打たれて形を得る。人は試練によって器を得る。何度も削られ、何度も悔し涙を流し、何度も立ち上がる。その過程でしか、人の魂は光らない。
そして、磨かれた人間は、周囲を照らす。
自分だけが立派になるために磨くのではない。家族を支えるために磨く。地域を明るくするために磨く。祖国の未来を守るために磨く。神さまから授かった命を、より清らかに、より強く、より誠実に用いるために磨くのである。
日本を甦らせる道も、ここにある。
大きな制度改革だけで国は甦らない。経済政策だけで人の心は甦らない。必要なのは、日本人一人ひとりが、己を磨き直すことである。父が父として磨かれ、母が母として磨かれ、子が子として学び、政治家が政治家として志を磨き、教育者が教育者として言葉を磨く。
その時、国は静かに変わり始める。
切磋琢磨とは、魂の鍛錬である。
切磋琢磨とは、神前に恥じぬ自分へ近づく道である。
切磋琢磨とは、日本人が日本人としての誇りを取り戻すための修養である。
宮司は今日も神前に祈る。令和の日本人が、安易な慰めに溺れず、己を磨く道へ立ち返ることを。若者が志を持ち、互いに励まし、互いに鍛え合い、祖国の未来を担う人物へと成長することを。
荒石の中には、必ず光がある。
その光を引き出すために、切り、磋き、琢ち、磨くのである。
日本人よ、己を磨け。
清く、強く、誠をもって。
磨かれた魂こそが、この国の未来を照らすのである。