『古事記』の冒頭には、この国の始まりが記されている。それは、単なる昔話ではない。日本人が天地をどのように捉え、命の誕生に何を感じ、国土にどのような祈りを込めてきたのか。その精神の原点を伝える物語である。
天地が初めて開けた時、高天原に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神がお成りになった。この三柱は、いずれも独り神であり、その御姿を現されることはなかった。
天之御中主神は、天地の中心にあって万物を統べる神。高御産巣日神と神産巣日神は、あらゆる命を生み、結び、育てる「むすび」の神である。
日本人は、目に見えるものだけを尊いと考えてきたのではない。目には見えなくとも、天地を動かし、命を育み、人と人とを結びつける大いなる働きがあると信じてきた。風を見ることはできない。しかし、木々の揺れによって風の存在を知る。神もまた、御姿を見るのではなく、その御働きを感じ取るものなのである。
次に、地上がまだ水に浮かぶ脂のように定まらず、海月のように漂っていた時、葦の芽が力強く伸びるように、宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神がお成りになった。
天之御中主神から天之常立神までの五柱を、別天津神という。いずれも独り神であり、姿を隠された神々である。
ここに、日本人の自然観が表れている。天地は、初めから完成した姿で存在したのではない。混沌の中から兆しが生まれ、目には見えない力によって、少しずつ形が整えられていった。
人間の人生も同じではないだろうか。
先の見えない時がある。何をすべきか分からず、心が定まらない時がある。しかし、たとえ今は海月のように漂っていたとしても、心の中に一本の葦の芽が生まれればよい。その小さな志が天に向かって伸び始めた時、人生は静かに動き出すのである。
続いて国之常立神、豊雲野神がお成りになり、さらに男女一対の神々が次々と現れた。そして最後にお成りになったのが、伊耶那岐神と伊耶那美神である。国之常立神から伊耶那美神までを、神世七代という。
天津神たちは、伊耶那岐命と伊耶那美命に、「漂っている国土を、あるべき姿に整え固めなさい」と命じ、天の沼矛をお授けになった。
二神は天の浮橋に立ち、天の沼矛で海をかき回した。矛を引き上げると、その先から滴り落ちた潮が積もり、一つの島となった。それが淤能碁呂島である。
国は、何もないところから突然出来上がったのではない。神々が矛を取り、混沌をかき回し、滴り落ちる一雫一雫を積み重ねて生まれたのである。
ここに大切な教えがある。
物事を成し遂げるためには、まず自らの手を動かさなければならない。祈るだけでは国土は固まらない。理想を語るだけでも世の中は変わらない。天から使命を与えられたならば、その使命を自らの行動によって形にする。それが神話の示す道である。
二神は淤能碁呂島へ降り、天の御柱と八尋殿を中心として国生みを始められた。しかし、最初からすべてが順調に進んだわけではない。初めの営みでは水蛭子と淡島が生まれたため、二神は天津神のもとへ戻り、教えを請うた。
天津神の教えを受けた二神は、もう一度、初めからやり直した。そして改めて天の御柱を巡り、正しい順序によって結ばれると、今度は次々に島々が生まれた。
この物語を、現代の男女の優劣に結びつけて読むべきではない。神話が伝えているのは、天地の営みには秩序があり、物事には踏むべき道があるということである。自分勝手に進めて行き詰まったならば、教えを請い、過ちを認め、原点へ戻ってやり直せばよい。
一度の失敗で、すべてが終わるわけではない。
伊耶那岐命と伊耶那美命も、失敗の原因を確かめ、素直に教えを受け入れ、もう一度、天の御柱を巡られた。神々でさえ、やり直すのである。まして人間が、失敗を恥じて立ち止まる必要はない。
大切なのは、失敗を他人の責任にしないこと。間違いを認め、正しい道を尋ね、再び歩み始めること。その素直さが、新しい国を生み、新しい未来を開くのである。
こうして淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州が生まれた。これら八つの島を大八島国という。その後も吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島などが生まれ、日本の国土が形づくられていった。
日本の島々は、単なる土や岩の集まりとして語られているのではない。一つ一つに名があり、命があり、神の御心が宿る存在として語られている。
山にも神が宿る。海にも神が宿る。川にも、岩にも、木にも、島にも、それぞれ尊い命がある。だからこそ、日本人は自然を征服すべき対象ではなく、共に生きる存在として敬ってきた。
国土を汚すことは、神々から託された命を傷つけること。美しい山河を次代へ残すことは、国生みの御業を受け継ぐことである。
現代の日本人は、自らが立っているこの大地の由来を、どれほど知っているだろうか。道路も建物も、経済も制度も、すべては国土があってこそ成り立つ。その国土は、遠い祖先が守り、耕し、命をつないできたかけがえのない故郷である。
神話を学ぶとは、過去の空想を覚えることではない。
自分はどこから来たのか。この国はどのように生まれたのか。天地から授かった命を、何のために使うのか。それを自らに問い直すことである。
天地のはじめには、目に見えない神々の御働きがあった。混沌の中には、葦の芽のような命の兆しがあった。そして、伊耶那岐命と伊耶那美命が使命を受け、失敗を乗り越えながら、島々を生み出された。
日本は、祈りと行動によって生まれた国である。
我々もまた、この神話の続きに生きている。祖先から受け継いだ国を守り、整え、次の世代へ引き渡す役目がある。今だけ、自分だけ、金だけを求める生き方では、この美しい国を未来へ残すことはできない。
天地の神々に感謝し、国土を敬い、祖先を敬い、自らに与えられた役目を果たす。一人ひとりが、その原点に立ち返らなければならない。
国生みは、遠い昔に終わった物語ではない。より良い日本を築くため、我々が今日も受け継いでいくべき御業なのである。