本物の強さは、語らない。承認欲求を超えた先に見えるもの

ある朝、宮司は長野の山里の空気を吸いながら、ひとつの問いを胸に浮かべた。真に優れた人物とは、どのような者であるか。知識の豊かな者か、地位の高い者か、人脈の広い者か。いや、宮司が長い人生の中で出会った、本当に優れた人物たちは、ことごとくそのような属性とは無縁のところで輝いていた。
宮司が若き日に師と仰いだある人物は、自らの業績を語ることがなかった。問われれば答えるが、自ら語り始めることはない。その静けさの中に、宮司はある種の重みを感じた。後になって知ったことだが、その人物は世に知られた多くの功績を持っていた。しかし、その重みは功績から来るのではなかった。自分を着飾る必要が、その人にはなかったのである。
翻って、令和という時代を見渡すと、自己宣伝と承認欲求が渦を巻いているように見える。SNSには「自分はこれだけ素晴らしい」という主張があふれ、肩書や実績を誇示する言葉が絶え間なく流れる。宮司はそれを責めているのではない。人が認められたいと思うことは、自然な感情である。しかし、そこに留まり続けることの危うさを、深く思わずにはいられない。
アドラーの心理学は、承認欲求を人間の根本的な動因として捉えつつも、それに縛られることの限界を説く。他者からの承認を必要とし続けるということは、常に他者の評価という不安定な地盤の上に自らを置き続けることに他ならない。他者が自分をどう見るかは、自分では制御できない。その制御できないものに依存して生きる限り、人は真の意味で自由にはなれない。
日本の古き精神はこの問いに、はるか昔から答えを出していた。武士道の根幹にあるのは、他者に見られているかどうかにかかわらず、正しく振る舞うことである。「お天道様が見ている」という言葉がある。誰も見ていない時にこそ、その人の真の姿が現れる。誰かに賞賛されるから正しく行動するのではなく、それが正しいことだから行動する。この精神こそが、承認欲求を超えた境地である。
宮司は神職として、日々、神前に立つ。その時、宮司を見ている者は、目に見える形ではいない。しかし、宮司は常に、見えない何かの前に立っているという感覚を持ち続けている。それは大神であり、この国を守り続けてきた無数の祖霊たちの視線である。その視線の前で恥じない在り方を保つことが、宮司の日々の根幹をなしている。
自慢し、自己アピールをする者が、中身を伴っていないとは限らない。しかし、本当に深い器を持つ者は、自らを語る必要を感じないものである。それは、澄んだ水が透明であることに似ている。何も見えないように見えるが、その透明さの中にこそ、純粋なものが宿っている。濁った水は色がついて見えるが、色があるということは不純物が混ざっているということでもある。
令和の御代に、大和の心を取り戻すとはどういうことか。宮司は思う。それは、承認欲求に振り回されない、静かな自立の精神を育てることではないか。誰かに褒められなくとも、今日という日を誠実に生きる。誰も見ていなくとも、正しい所作を守る。そのような日々の積み重ねの中に、真の強さは宿る。
本物の強さは、語らない。それは沈黙の中に宿り、日々の行いの中に滲み出る。見る者が見れば、必ず伝わる。そして、見る者に伝わらなくとも、天地はそれを知っている。その確信をもって生きることが、承認欲求を超えた先に広がる、本当の自由というものではないか。宮司は今日も、山里の社に手を合わせ、その道を一歩一歩、歩み続ける。
