夢と目標を持て。志が氣を率い、人生を動かす

人は、夢と目標を持たねばならない。ただ何となく一日を過ごし、ただ何となく歳を重ねるだけでは、人生は力を失っていく。どこへ向かうのか。何を成すのか。何を守り、何を次の世へ残すのか。そのターゲットを持つことによって、人の心には芯が立つ。
宮司は思う。夢と目標は、人間の氣迫を生み出す源である。
孟子に「志は氣の帥なり」という言葉がある。志は氣の師であり、氣を率いるものだという意味である。宮司はこの言葉を、夢と目標があってこそ、人は元氣を持ち、勇氣を持ち、行動する力を持つのだと受け止めている。志がなければ、氣は定まらない。氣が定まらなければ、日々の行動もまた定まらない。
だからこそ、まず志を抱きしめることである。大きくてもよい。小さくてもよい。人に笑われてもよい。世間から見れば無謀に見えてもよい。大切なのは、自分の内なる声に対して正直であるかどうかである。
志を立てて始めたことは、いかなる障害があろうとも、簡単にやめてはならない。古く「死して後已む」という言葉がある。これは、死んでのちにやむ、というほどの強い覚悟である。もちろん、命を粗末にせよという意味ではない。志を途中で投げ出すなということである。困難が来たからやめる。人に反対されたからやめる。損をしそうだからやめる。そのような心では、大きなことは成し遂げられない。
人は、すぐに損得を考える。これをやれば得をするか。評価されるか。人から認められるか。世間体はどうか。しかし、損得ばかりを秤にかける人間は、肝心なところで腹が決まらない。正しいことは正しい。間違いは間違いである。世間が何と言おうと、己の良心がそれを知っている。
孟子には、「仰ぎて天に愧じず、俯して人に怍じず」という言葉がある。天を仰いで恥じることなく、人に対しても恥じるところがない。つまり、心中に少しもやましいことがないということである。世間体や他人の目に振り回されるのではなく、天に対して、地に対して、人に対して、そして自分自身に対して恥じない生き方をする。ここに、人としての根本がある。
現代の人は、他人の目を気にしすぎる。何を言われるか。どう見られるか。嫌われないか。笑われないか。そのようなことばかりを気にしているうちに、自分の志を小さくしてしまう。だが、他人の評価は移ろいやすい。昨日褒めた人が、今日は批判する。今日笑った人が、明日は忘れている。そのようなものに人生の軸を預けてはならない。
宮司は、孟子の「恒産無くして恒心有る者は、ただ士のみ能くす」という言葉も大切にしている。一般には、一定の職業や財産がなければ、安定した道義心や良識を持つことは難しい、と解釈されることが多い。しかし宮司は、志をもって学問修業を徹底していく者は、たとえ恒産がなくとも、道義心と良識を持つことができるのだと理解している。
人間の根本を支えるものは、財産だけではない。地位だけでもない。家柄だけでもない。もちろん暮らしを立てることは大切である。だが、それ以上に大切なのは、何のために生きるのかという志である。志ある者は、貧しさの中でも学ぶ。苦しみの中でも立つ。人から認められなくても、自らを磨くことをやめない。
孟子はまた、人が大任を受ける時には、まずその心志を苦しめ、筋骨を労せしめ、体膚を餓えしめ、その身を空乏にすると説いた。天が大きな任をその人に降そうとする時、必ず先に苦難を与えるというのである。なぜか。それは、心を動かし、性を忍ばせ、その人がまだできなかったことをできるようにするためである。
苦難は、ただ人を苦しめるためにあるのではない。苦難は、人を鍛える。思い通りにいかない時間が、人の心を深くする。悔しさが、忍耐を生む。貧しさが、感謝を教える。孤独が、祈りを教える。失敗が、次に進む知恵を与える。大任を担う者ほど、楽な道ばかりを歩むことはできない。
だから、困難が来た時に、すぐに自分は不幸だと思ってはならない。これは天が自分を鍛えているのだと受け止めることである。自分の心志を苦しめ、筋骨を労せしめ、身を空乏にするものが来た時こそ、志を試されているのである。
さらに、人は父母への感謝を忘れてはならない。どんな父であれ、どのような母であれ、今日自分がこの世に生まれて存在するのは、父母がいたからである。父母がいなければ、自分は生まれていない。この当たり前のことに、人はなかなか気づかない。
父母の愛は山よりも高く、海よりも深い。けれども、その深さに気づくのは、多くの場合、父母が亡くなってからである。生きている時には、面倒だと思うこともある。うるさいと思うこともある。分かってくれないと思うこともある。しかし、父母の存在なくして、今の自分はない。志を立てる者は、まずこの根を忘れてはならない。
孟子の教えには、仁義同根という考えがある。仁と義は別々のものではない。出会う相手や場面によって名を異にするだけで、その実は一つの心より流れ出るものである。父子の間では仁といい、親しみといい、慈孝という。君臣の間では義という。だが、その根は同じである。
つまり、志とは自分一人の野心ではない。親を敬い、人を思い、公に尽くし、正しい道を歩む心と結ばれていなければならない。夢と目標を持てというのは、ただ自分が有名になれ、金を得よ、勝ち上がれという話ではない。損得を超えて、天地に恥じず、人に恥じず、父母に恥じず、祖先に恥じぬ人生を歩めということである。
孟子は「浩然の氣」を説いた。宮司は、浩然の氣とは一言でいえば勇氣であり、生きるための活力であると思う。広く、大きく、高く、気迫のみなぎる力である。それは乱暴な勢いではない。義と道に伴って養われる、正しく素直な氣である。
富貴も淫するにあたわず。貧賤も移すあたわず。威武も屈するにあたわず。富や栄華に心を奪われず、貧しさや低い身分に心を変えず、権力や武力にも屈しない。これこそ、浩然の氣を養う者の姿である。
現代の日本に必要なのは、この浩然の氣ではないか。豊かさに溺れず、貧しさに卑屈にならず、力ある者に媚びず、世間の空気に流されず、正しいことを正しいと言い、間違いを間違いと言う勇氣である。損得など考えるな。世間など気にするでない。己の志を抱きしめ、正しい道を歩め。
夢と目標を持つ者は、目が変わる。姿勢が変わる。言葉が変わる。日々の行動が変わる。そして、その人の周りにある空気まで変わっていく。志が氣を率いるとは、まさにこのことである。志があるから、氣迫が生まれる。氣迫があるから、行動が生まれる。行動があるから、人生が動く。
宮司は思う。令和の日本人は、もう一度、志を立てねばならない。小さくまとまるな。損得で動くな。他人の目を恐れるな。天に恥じず、地に恥じず、人に恥じず、父母に恥じず、祖先に恥じぬ道を歩め。
志を立てたなら、途中で投げ出すな。
夢と目標を持て。
ターゲットを持て。
浩然の氣を養え。
そして、損得抜きで行動せよ。
甦れ、志が氣を率い、夢と目標に向かって進む日本人の心。甦れ、天にも地にも恥じず、富貴にも貧賤にも威武にも動かされぬ、清く強き大和魂。
