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安倍晋三元総理銅像建立

迷ったら行動せよ。今を生き切る覚悟と、後悔しない人生

人生には、迷う時がある。右へ行くべきか、左へ行くべきか。進むべきか、退くべきか。やるべきか、やめるべきか。仕事でも、家庭でも、人間関係でも、信仰の道でも、迷いのない人生などない。人は、人生の節目で必ず立ち止まり、自分の進むべき道を問われる。

しかし宮司は思う。迷った時こそ、行動すべきである。

「迷ったら行動する」

これは、軽い言葉ではない。無計画に飛び出せという意味でもない。自分の心が何かを求め、何かを始めようとしているなら、その声をいつまでも押し殺してはならないということである。人は、やる前から考えすぎる。失敗したらどうしよう。笑われたらどうしよう。損をしたらどうしよう。後悔したらどうしよう。そうして、まだ何も始まっていないうちから、自分で自分の足を縛ってしまう。

だが、人生は出たとこ勝負である。すべてを計算し尽くしてから歩き出せる人生などない。明日の天気さえ、本当のところは誰にも分からない。まして、人の心や世の流れ、自分の運命を、始める前から完全に読み切ることなどできるはずがない。それでも人は、進まねばならない。

石橋を叩くことも大切である。慎重さは必要である。だが、石橋を叩き続けて一生を終えるならば、それはもはや慎重ではない。恐れである。橋は、渡るためにある。叩いてばかりいては、向こう岸には着かない。

今、何かをしようと思うなら、ただ今が、今である。過去ではない。未来でもない。ただ今こそが、ただ今である。過去を悔やんでも、過去は戻らない。未来を恐れても、未来はまだ来ていない。私たちに与えられているのは、いつも今この瞬間だけである。

神道では、日々の祈りを大切にする。朝に拝む。夕に拝む。手を合わせ、心を整え、今日一日をどう生きるかを自らに問う。祈りとは、ただ願いを神さまに預けることではない。祈りとは、自分の心を清め、今なすべきことを見定めることである。

だから、祈ったならば動かねばならない。手を合わせたならば、次は足を出さねばならない。神さまに願うだけ願って、自分は何もしないというのでは、道は開けない。行動する者にこそ、道は開かれるのである。

もちろん、行動すれば失敗することもある。橋を渡れば、足を滑らせることもある。水に濡れることもある。恥をかくこともある。思った通りにいかないこともある。しかし、それが何だというのか。橋から落ちても、水に濡れるだけである。命まで取られるわけではない。濡れたなら、また立ち上がればよい。衣を乾かし、もう一度歩き出せばよい。

失敗を恐れるあまり何もしない人生こそ、最も大きな失敗ではないか。

人間は、一人ではない。どれほど孤独に思える時でも、必ず隣に人がいる。共に笑ってくれる人がいる。共に泣いてくれる人がいる。手を差し伸べてくれる人がいる。あるいは、黙って見守ってくれる人がいる。人は、人によって支えられている。

だから、自分一人で全部を背負おうとしなくてよい。最初の一歩を出せば、不思議なことに、必要な人が現れる。助けてくれる人が現れる。共に歩いてくれる人が現れる。人生は、頭の中だけでは動かない。人と会い、言葉を交わし、汗をかき、恥をかき、失敗し、もう一度立ち上がる。その繰り返しの中で、人は磨かれていく。

損得ばかり考える人は、肝心な時に動けない。得をするか、損をするか。成功するか、失敗するか。評価されるか、笑われるか。そんな計算ばかりしていると、心が小さくなる。小さくなった心では、大きな人生は歩めない。

大切なのは、損得ではない。それが正しいと思うか。それをやらずに、後で悔いが残らないか。今、自分の心が本当に求めている道はどこか。この問いである。

後悔には二つある。やって失敗した後悔と、やらなかった後悔である。やって失敗した後悔は、やがて経験になる。痛みは残るかもしれない。しかし、その痛みは人を強くする。次に進む知恵となる。だが、やらなかった後悔は、心の奥に残り続ける。

あの時、なぜ一歩を出さなかったのか。あの時、なぜ言わなかったのか。あの時、なぜ挑まなかったのか。この悔いは、時が過ぎるほど重くなる。だから、迷ったら行動するのである。今すぐにやるのである。

もちろん、無責任であってはならない。人を傷つける行動や、道に外れた行動を、勢いだけでしてよいわけではない。神さまの前に立って恥じないか。祖先に顔向けできるか。大切な人を裏切らないか。その心の筋は、決して失ってはならない。

しかし、その筋が通っているなら、恐れる必要はない。一歩を出せ。橋を渡れ。水に濡れてもよい。泥がついてもよい。笑われてもよい。それでも、動いた者だけが見る景色がある。

令和の時代は、情報が多すぎる。人は調べれば調べるほど迷い、比べれば比べるほど動けなくなる。あらゆる選択肢が目の前に並ぶからこそ、かえって一歩が出なくなる。しかし、人生は画面の中にはない。人生は、現場にある。人と人との間にある。今この足元にある。

どれほど多くの情報を集めても、実際に動かなければ何も始まらない。どれほど立派な夢を語っても、今日一つ行動しなければ、その夢は夢のままで終わる。宮司は思う。日本人は、もう一度、腹を決める力を取り戻さねばならない。失敗を恐れず、損得に縛られず、今この時を生き切る力である。

迷いは悪いものではない。迷うということは、真剣に生きているということでもある。いい加減な人間は迷わない。どうでもよいと思っている人間は悩まない。だから、迷うことを恥じる必要はない。ただし、迷い続けてはならない。

迷いの中で心を整え、祈り、そして一歩を出す。その一歩が、自分の人生を動かす。周りの人を動かす。やがて、思いもよらぬ道を開いていく。

「やろうかな、やるまいかな」

そう思った時が、始める時である。ただ今が、今である。今日という日は、二度と来ない。この一瞬も、二度と戻らない。ならば、立ち止まっている暇はない。

石橋など叩く暇があれば渡れ。損得など考えるな。とりあえず橋を渡ってみよ。水に濡れたなら、それも人生である。失敗したなら、それも修行である。笑われたなら、それもまた、人を強くする薬である。

大切なのは、後悔しないことである。自分の命を、今日という日に使い切ることである。

甦れ、迷いの中でも一歩を踏み出す日本人の心。甦れ、損得を超え、今を生き切り、後悔なき人生を歩む、大和魂。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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