大事をなす者の覚悟。明治の名将・児玉源太郎に学ぶ、令和の志

世に「男の本懐」という言葉がある。それは単なる達成の喜びではない。困難に打ち克ち、己の全てを国のために注ぎ尽くした者だけが、生涯の終わりに静かに口にすることのできる言葉である。宮司は折に触れて、この言葉を思う。そして思うたびに、一人の男の姿が脳裏に浮かぶ。明治の陸軍が誇った不世出の名将、児玉源太郎その人である。

児玉源太郎(1852〜1906)は、周防国徳山藩(現・山口県周南市)の中級武士の家に生まれた。その生涯は、波乱の連続であった。幼くして父代わりの義兄を藩の内紛で失い、一時は家名さえ断絶の危機に瀕した。しかし源太郎は、その逆境を嘆くことなく、家長として一族を再興した。そして維新の戦乱の中に飛び込み、函館戦争を皮切りに、神風連の乱、西南戦争の熊本籠城戦と、幾多の修羅場をくぐり抜けながら、軍人としての才幹を磨いていった。

源太郎の残した言葉がある。

「何事をなすにも必ず困難が伴うものだ。その困難に打ちかって大事をなすことこそ、男子の本懐というもの。男らしく、正々堂々とやりたまえ。」

この言葉は、観念から生まれたものではない。血と泥と硝煙の中を生き抜いた男が、実戦の現場から絞り出した肉声である。困難を恐れよ、と言っているのではない。困難を避けよ、とも言っていない。困難に打ち克て、と言っているのだ。その一点に、源太郎の全てが宿っている。

宮司が最も心を動かされるのは、日露戦争の開戦直前のある決断である。当時、源太郎は陸軍大臣という、軍の頂点に近い栄職に就いていた。ところが参謀本部の大黒柱であった田村怡与造参謀次長が急死し、対露作戦計画の中枢が空白となる椿事が起きた。大国ロシアとの戦いを目前に控え、参謀本部は根幹から揺らいだ。そのとき源太郎がとった行動は、驚くべきものであった。大臣の地位を自ら辞し、実質的には格下となる参謀本部次長の職に、自ら志願して就いたのである。

「位のためでなく、仕事のために生きよ」――源太郎の行動は、そのことを身をもって示していた。栄誉よりも国家を選んだ男の、無言の覚悟であった。宮司はこの一事をもって、児玉源太郎という人物の真価がすべて語られると感じている。肩書きは道具に過ぎない。真に大事をなそうとする者は、己の地位や名声に執着しない。なすべき仕事のそばに、ただ静かに立つのである。

その後の源太郎の活躍は、歴史が伝える通りである。満州軍総参謀長として大山巌司令官を補佐し、財閥の重鎮・渋沢栄一を説き伏せて戦費を調達し、対立する薩長の陸海軍を一つにまとめ上げた。さらに「児玉ケーブル」と称される海底ケーブルを日本周辺に張り巡らせ、近代戦の命である情報伝達の迅速化を実現した。作戦、資金、情報、人事——あらゆる局面で源太郎の名が登場する。彼はまさに、日露戦争という国家の大事を、縁の下で支え抜いた男であった。

ドイツから招かれた軍事顧問メッケル少佐は、日露開戦の勝敗をドイツ人記者に問われたとき、こう答えたという。「日本にはゲネラル・コダマがいる限り、掛念がない。必ずや露軍を破るであろう」と。日本人でさえ測りかねた源太郎の真価を、異国の人間が見抜いていた。本物の器というものは、国境を越えて人を動かすのである。

また、台湾統治において後藤新平を民政長官に登用し、台湾の近代化に尽力した源太郎の功績は、長く台湾の人々の心に刻まれた。児玉神社(山口県周南市)の境内には、台湾の元総統・李登輝氏の揮毫による石碑が今も残っている。「児玉源太郎先生 浩氣長存」——その気は、今もなお長く存すると、碑は語りかける。日本人だけでなく、台湾の人々もまた源太郎を英雄として慕ったのは、彼の働きが真に民のためのものであったからに他ならない。

源太郎はまた、こんな言葉も残している。「初めから他人の助けを、当てにするような人間は、決して成功せん。」この言葉が、令和の今、胸に深く刺さる。便利さと効率の名のもとに、自ら考え、自ら決断し、自ら動くことを、私たちはいつの間にか忘れてはいまいか。困難を誰かに解決してもらおうとし、失敗の責任を社会や他者に求め、自らの無力を環境のせいにする。そのような心の在り方が、静かに、しかし着実に、この国の背骨を溶かしてきたのではないか。

宮司は春の社殿に立ち、芽吹いたばかりの若葉が五月の風に揺れる様を眺めながら思う。木々は誰かに葉を開いてもらうことを待たない。土の中の根は、誰に頼むこともなく、ただ黙々と水を求めて深く伸びていく。自らの力で根を張り、自らの力で天へと向かう。それが命の本来の姿ではないか。源太郎が生きた明治という時代は、日本が文明の荒波の中で生死をかけて立ち向かった時代であった。しかしその困難な時代の中にこそ、人は真剣に生き、真剣に国を思い、真剣に後世へ何かを遺そうとした。

令和の日本に、源太郎のような男が必要である。地位や肩書きに惑わされず、なすべき仕事のそばにただ黙然と立てる男が。困難を前に「男子の本懐」と笑い飛ばせる男が。他者の助けを当てにせず、己の力で道を切り拓こうとする男が。そして国のために、時には己の栄誉さえ差し出せる男が。源太郎が示したのは、単なる軍人の美徳ではない。人として、男として、国に生きる者として、最も根本的な心の在り方であった。

源太郎は1906年(明治39年)、参謀総長に就いたその年に急逝した。享年五十四歳。「常に警句を連発しては呵々大笑、決して憂色を見せなかった」と伝えられる。どれほどの重圧の中にあっても、暗い顔を人に見せることなく、笑いながら前へ進み続けた男。その姿もまた、令和を生きる私たちへの、遥か彼方からの贈り物ではないか。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

目次