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安倍晋三元総理銅像建立

種を持たぬ言の葉は、風に散る。AI時代における日本語の砦

机に向かい、声に出して古い歌を読む子がいる。その傍らで、静かに耳を傾ける親がいる。意味のすべてを理解しているわけではない。けれど、千年を超えて伝わってきた音の連なりが、その小さな胸にすっと収まっていく。日本という国には、こうした光景が、目立たぬところで、今も続いている。宮司は、この風景こそが、この国の最後の砦ではないかと、しばしば思う。

文部科学省は、中央教育審議会の作業部会において、高校国語の科目構成を再編する案を示した。これまで論理的な文章を扱う「論理国語」と、小説など文学作品を扱う「文学国語」が分かれていたが、文学国語の履修率は半数にも満たなかったという。理系を選んだ生徒は文学に触れる機会をほとんど失い、論理だけを鍛えて社会へ送り出されてきた。人工知能と通信網が言葉を瞬時に量産する時代だからこそ、人間ならではの感性を育む学びを取り戻さねばならぬ、と文科省は判断した。文理を問わず、全ての生徒が文学と古典に触れる方向へ、ようやく舵が切られようとしている。

宮司は、この知らせに静かに頷いた。日本という国の一番奥にあるものを、行政が、ようやく見つめ直し始めたと感じたからである。

平安の御代、紀貫之が編んだ『古今和歌集』の仮名序は、こう書き起こされている。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

日本の歌というものは、人の心を種として、そこから無数の言の葉が茂り出たものなのだ、と。この一文の凄みは、計り知れぬ。言葉とは、思想を運ぶ道具ではない。心という土壌から生まれ出るものなのだ、と貫之は言い切った。そしてその心は、世の様々な出来事に触れたとき、自然に動く。動いた心が、息となり、声となり、歌となる。これが日本人の言葉の在り方であった。

紀貫之は、土佐守として赴任した任地から京へ帰る船旅を、女性に仮託して仮名文字で書き残した。『土佐日記』である。男は漢文で日記を書くのが当然とされていた時代に、貫之は仮名で書いた。これは単なる遊戯ではない。漢字の世界では掬いきれぬ心のひだを、日本語の柔らかな仮名でしか書けぬものを、彼は遺そうとしたのである。土佐で亡くした愛娘を思い、「都へと思ふをものの悲しきは、かへらぬ人のあればなりけり」と記す。漢文では決して書けぬ、骨に食い込む嘆きが、仮名の流れの中に静かに生きている。

宮司は思う。紀貫之の選んだ道は、日本人が日本人として生きる道そのものであった、と。論理ではすくえぬもの、漢字ではすくえぬもの、そこにこそ日本人の魂が宿る。理屈で説明できぬ淋しさを、和歌は三十一文字に閉じ込めてきた。言葉にならぬものを言葉にせんとする、その不可能の前に立ち止まる態度こそが、千年の文学を産んだのだ。

そして今、人工知能はあらゆる言葉を瞬時に作り出す。論文も、手紙も、詩らしきものさえ、機械が量産する。子らは、自分の心を種とせずに、画面の中の言葉を借りて生きるようになりつつある。種を持たぬ言の葉は、根を持たぬ。根を持たぬ葉は、風が吹けば散る。そのことに、最も恐れを抱かねばならぬのは、ほかならぬ我ら日本人ではないか。

論理だけを鍛え、感性を後回しにすれば、人はやがて機械と同じ思考しかできなくなる。機械と同じ思考しかできぬ人間に、いったい何の存在価値があろうか。人間が人間であるための最後の砦、それが感性であり、その感性を育てるのは、論理の文章ではなく、千年の歌と物語である。

宮司は、神職の道を歩み始めて以来、祝詞をあげるたびに、言葉の重みを思い知ってきた。神前で読まれる言葉は、意味だけを伝えているのではない。音の連なりそのものが、見えぬ世界に届くのである。古語の響きは、現代の言葉では決して代替できぬ働きをする。同様に、子らが万葉の歌を声に出すとき、平家物語の冒頭を口にするとき、彼らは知らずして、日本人の魂の井戸から水を汲んでいる。

この水を絶やしてはならない。

教育の現場が文学と古典への回帰を選んだ意義は深い。けれども、学校だけに委ねてはならぬのもまた、当然のことである。家庭で、地域で、神社で、寺で、千年の言葉を口にする習慣を取り戻すこと。一日一首でも構わぬ。一日一文でも構わぬ。日本の子に、日本の言葉を吹き込み続けること。それは知識のためではない。魂のためである。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

千年前の貫之の一文が、今この時、令和の日本に、静かに、しかし強く響いている。種を絶やすか、種をまた育てるか。問われているのは、文科省ではない。我ら一人一人の、日本人としての覚悟である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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