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安倍晋三元総理銅像建立

格物致知。物の道理を知り、良知を磨く道

「格物致知」という言葉がある。

『大学』に説かれる、「知を致すは物に格るに在り」という教えである。物をよく知らなければ、真の知には至らない。人間の中にある良知をきわめるためには、まず物の道理を知らなければならない、という意味である。

宮司は思う。この短い言葉の中に、人が人として正しく生きるための根本がある。

知るとは、ただ情報を集めることではない。物知りになることでもない。知るとは、物事の筋道を見極めることである。何が正しく、何が間違っているのか。何が本物で、何が見せかけであるのか。何が人を生かし、何が人を迷わせるのか。その道理を静かに見つめ、自分の心の奥にある良知を明らかにしていくこと。それが、格物致知の本義であろう。

現代は、情報の時代である。朝から晩まで、無数の言葉が人の心に流れ込んでくる。世界の出来事も、人の噂も、政治の話も、健康の話も、娯楽の話も、指先一つで知った気になることができる。

しかし、情報が多いことと、本当に知っていることとは違う。

見たことと、分かったこととは違う。

聞いたことと、腹に落ちたこととは違う。

宮司は思う。令和の日本人に欠けつつあるのは、この「腹に落ちる知」ではないか。

人は、目に入った言葉にすぐ反応する。怒る。笑う。批判する。拡散する。だが、その前に一度立ち止まって問うべきである。これは本当にそうなのか。自分はこの物事の道理をどこまで知っているのか。現場を見たのか。歴史を学んだのか。相手の立場を考えたのか。祖先から受け継いだ日本人の尺度で見ているのか。

「格物」とは、物に向かうことである。物とは、机の上の道具だけではない。自然であり、歴史であり、人間であり、家庭であり、国家であり、日々の出来事である。

米一粒にも道理がある。朝の挨拶にも道理がある。神社の鳥居をくぐる作法にも道理がある。父母に手を合わせる心にも道理がある。国を守るということにも、当然、深い道理がある。

その道理を知らずして、どうして正しい判断ができようか。

神道は、自然の中に神を見る。山には山の神があり、川には川の神があり、木にも石にも、風にも雨にも、命の働きが宿っている。これは単なる古い信仰ではない。物をよく見よ。自然の働きを畏れよ。天地の恵みを忘れるな。そういう日本人の根本の知恵である。

人間だけが偉いのではない。人間は天地自然の中で生かされている。その事実を知るところから、謙虚さが生まれる。

儒教は、人と人との間に道義を見る。親は親として、子は子として、君は君として、臣は臣として、それぞれに果たすべき道がある。これもまた、古い型ではない。人間関係には筋があり、恩があり、礼があり、責任があるということである。

自由の名のもとに、すべてを自分勝手にしてよいわけではない。己の立場を知り、相手への礼を知り、社会の秩序を知る。そこに人間の品格が生まれる。

仏教は、人間の内面に苦しみと慈悲を見る。人は皆、迷いを抱え、悩みを抱え、老いと病と死を逃れることはできない。その事実を知るからこそ、他者の苦しみに手を合わせる心が生まれる。自分だけが正しい、自分だけが苦しい、自分だけが特別だと思う心を静め、命の深いところで人とつながる。この慈悲もまた、物の道理を知るところから湧き上がる。

神道、儒教、仏教。この三つは、日本人の魂を長い年月をかけて育ててきた。自然を畏れ、人倫を重んじ、命に慈悲を向ける。この三つを失った時、日本人は日本人としての背骨を失う。便利になり、豊かになり、知識だけが増えても、道理を知らなければ、心は空洞になる。

格物致知とは、学問の言葉であると同時に、修行の言葉である。

知識を増やすだけなら、本を読めばよい。試験に通るだけなら、暗記をすればよい。しかし、良知を明らかにするためには、日々の暮らしの中で物の道理に触れねばならない。

掃除をする。なぜ掃除が大切か。場が清まると、心も清まるからである。

挨拶をする。なぜ挨拶が大切か。人と人との間に礼が立つからである。

父母に感謝する。なぜ感謝が大切か。自分の命は自分一人で始まったものではないからである。

国旗に礼をする。なぜ礼をするのか。祖国の歴史と、先人の犠牲と、今を生きる私たちの責任を思うからである。

この一つ一つを、ただ形だけで済ませてはならない。形の奥にある道理を知ることである。形は道理を守る器である。器を軽んじれば、中身もこぼれる。形だけを守って心を失ってもいけないが、心があると言いながら形を粗末にしても、やがて心は乱れる。

形と心、その両方を結ぶところに、日本人の修行がある。

教育もまた、格物致知を失ってはならない。今の教育は、知識を詰め込むことには熱心である。しかし、人として何を知るべきか、何のために学ぶのか、学んだ知をどう生かすのかという根本が弱くなってはいないか。

点数を取るためだけの知識では、人を救うことはできない。資格を得るためだけの知識では、国を支えることはできない。

本当の学問とは、人間をつくるものである。己を正し、家庭を整え、社会に尽くし、国家を支える。そのために学ぶのである。学問が出世の道具だけになれば、知は欲に仕える。学問が損得の計算だけになれば、知は卑しくなる。

学問は、本来、良知を磨くためにある。天地に恥じず、人に恥じず、祖先に恥じぬ生き方をするためにある。

宮司は、若い人たちに伝えたい。分からないことを恥じる必要はない。知らないことを知らないと言える人は、まだ伸びる。恥ずべきは、知らないまま知ったふりをすることである。浅い知識で人を裁くことである。現場を見ずに大きなことを言うことである。歴史を学ばずに国を語ることである。

知ろうとする姿勢には、謙虚さがある。謙虚な人は、よく見る。よく聞く。よく学ぶ。すぐに決めつけない。目の前の人の苦労を知ろうとする。先人の歩みを知ろうとする。自然の働きを知ろうとする。神前に立ち、自分の心の曇りを知ろうとする。

その積み重ねが、人の中にある良知を磨いていく。

良知とは、特別な人だけが持つものではない。人間の心の奥には、誰にも、正しさを感じる働きがある。悪いことをすれば胸が痛む。人に親切にすれば心が温かくなる。父母に背けば、どこかで申し訳なさを感じる。祖国を粗末にすれば、心のどこかが寂しくなる。

この働きが良知である。

しかし、良知は放っておけば曇る。欲に曇る。怒りに曇る。虚栄に曇る。怠惰に曇る。騒がしい情報に曇る。だから、物の道理を学び、祈り、行動し、失敗から学び、日々心を清めねばならない。

知は、頭だけのものではない。知は、心と体と行いにまで届いて、初めて本物になる。

理想は尊い。しかし、物の道理を知らぬ理想は、時に人を迷わせる。平和を願うことは尊い。だが、平和を守るための現実を知らねばならない。優しさは尊い。だが、優しさを守るための強さを知らねばならない。自由は尊い。だが、自由を支える責任を知らねばならない。

知ることを避けて、美しい言葉だけを並べても、国家も家庭も守ることはできない。

だからこそ、宮司は今日も「格物致知」という言葉を、令和の日本人への問いとして受け止めたい。

物を見よ。

道理を知れ。

良知を磨け。

そして、知ったならば行動せよ。

知っていながら動かない知は、まだ本物ではない。正しいと分かっていて沈黙するなら、その知は胆力に至っていない。間違いと分かっていながら流されるなら、その知は良知を照らしていない。知は、勇気となり、誠となり、行動となって、初めて世を照らす。

家庭を正すにも、まず家族の心を知らねばならない。地域を良くするにも、まず地域の現実を知らねばならない。国を守るにも、まず国の歴史と現状を知らねばならない。そして、自分を正すにも、まず自分の弱さを知らねばならない。

知らぬままでは、祈りも浅くなる。

知るからこそ、祈りは深くなる。

格物致知。

これは、遠い昔の学問の言葉ではない。今日の私たちの暮らしにそのまま生きている言葉である。朝の神棚、食卓の米、父母への一言、職場での責任、祖国への思い。そのすべての中に、知るべき道理がある。

令和の日本人よ、軽薄な情報に流されるな。知ったふりをするな。目の前の物をよく見よ。歴史を学べ。自然を畏れよ。父母祖先に感謝せよ。神前に恥じぬ心で、今日の務めを果たせ。

知ることは、祈ることに近い。

物の道理を知ろうとする心は、己の未熟を知る心でもある。己の未熟を知る者は、謙虚になる。謙虚な者は学び続ける。学び続ける者の中で、良知は少しずつ光を取り戻していく。

格物致知とは、遠い昔の学問ではない。

今日、目の前の一つをよく見ること。人の言葉をよく聞くこと。自然の働きに頭を垂れること。父母祖先への感謝を忘れぬこと。そして、知った道理を日々の行いに移していくこと。

その静かな積み重ねの中に、人としての道がある。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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