乱暴な言葉の向こうに何があるか。弱さを知る者の強さ

令和という時代に生きていると、ふとした折に胸を塞ぐことがある。インターネットの画面の向こうから、あるいは日常の人間関係の中から、刃のような言葉が飛んでくる。他人を貶め、罵倒し、嘲笑う。そういった言葉が、まるで当然のことのように溢れている。宮司はそのたびに、静かに問い直す。この言葉は、どこから来るのか、と。
宮司が警察官として大阪の街に立っていた頃、乱暴な言動をとる者を数多く見てきた。彼らの多くに共通していたのは、表面の激しさとは裏腹に、その内側に深い不安と脆さを抱えていたということである。声が大きく、態度が荒々しいほど、その人間の内側は揺れていた。本当に自分というものを持ち、確たる軸を持って生きている者は、他者を傷つける言葉を必要としない。必要としないのではなく、そもそも思い浮かばないのである。
心理学の言葉を借りるまでもなく、古来より日本人はそのことを知っていた。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がある。真に力のある者は、静かである。無用に声を荒げず、他者を踏みにじらず、自らの内側から湧き出る落ち着きをもって人と向き合う。それが大和の心の本来の姿であった。
他者にマウントをとり、攻撃することで自分を保とうとする者は、実のところ、自分自身を信じることができていない。自信とは、他者を下に置くことで生まれるものではない。自分の内側にある何か確かなものを信じ、たとえ誰に認められなくとも、自らの道を歩み続けることができる力のことである。その力が乏しいから、他者の反応に依存し、誰かを攻撃することで己の存在を確かめようとする。
宮司は、そのような者たちに怒りを覚えることはない。むしろ、ある種の哀れみと、そして静かな理解を覚える。人は誰も、最初から強くはない。自信とは、磨かれることで生まれるものであり、試練を経ることで育つものである。その過程を知らず、あるいはその機会を与えられなかった者が、乱暴な言葉に逃げ込む。それは、弱さの表現に他ならない。
では、私たちはそのような者たちにどう向き合えばよいか。宮司が思うに、最も賢明な在り方は、相手にしないことである。これは冷たさではない。むしろ、深い洞察に基づいた行動である。攻撃を受けた者が反応し、傷つき、あるいは怒りをぶつけることで、攻撃者は求めていたものを得る。それは注目であり、自分の存在が他者に影響を与えているという感覚である。その感覚を与えないことが、攻撃者に対する最も的確な対処であると同時に、自らの内側を守ることにもなる。
日本人はかつて、「武士は食わねど高楊枝」という精神を持っていた。たとえ困窮しても、誇りを失わない。たとえ侮辱されても、品格を乱さない。その静かな強さこそが、大和の心の真髄であったはずだ。令和の御代に生きる私たちが、その精神をどれほど受け継いでいるか。今一度、問い直す必要があるのではないか。
宮司は毎朝、神前に手を合わせ、今日という日を静かに始める。何かを誇示するためでも、誰かに認めてもらうためでもない。ただ、この命を与えてくださった大神に感謝し、今日も誠実に生きようとする。その繰り返しの中に、自信の芽が静かに育っていく。人は誰かに認められることで育つのではなく、自らを磨く日々の積み重ねの中で、内側から立ち上がるのである。
乱暴な言葉を前にして、揺れる必要はない。その言葉の向こうにあるものを見通し、静かに自らの道を歩み続ける。それが、令和の御代に大和の心を生きる者の、あるべき姿である。
