メディアは誰のためにあるのか。言葉の刃と、報道の責任を問う

産経新聞の記事に接し、宮司は、メディアのあり方について深く考えさせられた。週刊文春が、高市早苗首相に関する記事について、一部の動画に時系列上の問題点が確認されたとして関連動画の公開を一時停止し、本文も修正したという。そして次号において取材経緯を説明すると伝えたと報じられている。これは単なる技術的な修正ではない。時系列とは、物事の意味を決める骨格である。何が先に起こり、何が後に起こったのか。その順序が変われば、読者の印象は大きく変わる。映像が持つ力は強い。文字よりも直感に訴え、人の心に強く残る。だからこそ、動画の扱いに時系列上の問題があったという事実は、報道の根幹に関わる重い問題として受け止めなければならない。
宮司は、報道機関が権力を監視する役割を否定するものではない。政治家であれ、官僚であれ、公の立場にある者は、国民の厳しい目にさらされるべきである。不正があるならば追及されねばならない。疑問があるならば問われねばならない。メディアが沈黙し、権力の顔色ばかりをうかがう国は、健全な国ではない。しかし、権力を監視するという使命は、事実を粗末にしてよい免許ではない。疑惑を語ることと、断罪することは違う。検証することと、印象を操作することは違う。正義を掲げる者ほど、自らの言葉と手法に対して、より厳しくなければならないのである。
現代のメディアは、速さを競う。誰よりも早く報じること、誰よりも強い見出しを打つこと、誰よりも多く読まれること、誰よりも大きな反響を得ることに追われている。そこに、報道の危うさがある。真実は、速さだけでは届かない。真実には、確認が要る。反証が要る。文脈が要る。人の名誉への配慮が要る。ところが、現代の情報空間では、強い言葉ほど広がり、怒りを誘う見出しほど読まれ、切り取られた映像ほど人を動かす。そうして、まだ確かめられていないものが、あたかも確定した事実のように世に広がっていく。これは恐ろしいことである。
人は、一度貼られた印象をなかなか剥がすことができない。たとえ後日訂正が出ても、最初に受けた印象だけが残る。見出しだけを読んだ人、短い動画だけを見た人、SNSで流れてきた断片だけを信じた人の心には、訂正の文字が届かないことも多い。報道とは、それほど強い力を持つ。人の名誉を傷つけることもできる。世論を動かすこともできる。政治の流れを変えることもできる。だからこそ、メディアは自らの力を畏れなければならない。力を持つ者が、自分の力を畏れなくなった時、その力は必ず乱れる。
宮司は思う。報道に必要なのは、勇気だけではない。慎みである。権力を追及する勇気は尊い。しかし、相手を悪と決めつけてから材料を集めるような姿勢になれば、それは取材ではなく、結論に向けた工作になってしまう。疑惑を追うことは必要である。だが、疑惑を追う者は、疑惑が間違いである可能性にも誠実でなければならない。自分たちが描いた筋書きに都合のよい断片だけを並べ、都合の悪い文脈を軽んじるならば、読者は真実ではなく、作られた印象を見せられることになる。
メディアは、世論を裁判所のように動かすことがある。だが、報道機関は裁判所ではない。記者は検察官ではない。編集部は神ではない。人を疑う時には、疑われる側にも人生がある。家族がある。名誉がある。長く積み重ねてきた歩みがある。政治家であっても、それは同じである。公人だから何をされてもよい、権力者だからどのように切り取ってもよい、という考え方は危うい。公人を厳しく問うことと、人間としての名誉を粗末にすることは、決して同じではない。
今回、週刊文春が「取材経緯を説明する」としたこと自体は、当然であると同時に、極めて重要である。訂正とは、ただ本文の一部を書き換えることでは足りない。何が誤っていたのか。なぜそのような誤りが起きたのか。編集過程でどのような確認が行われたのか。どこで検証が不十分だったのか。今後どう防ぐのか。そこまで明らかにして初めて、読者に対する責任を果たすことになる。メディアは他者に説明責任を求める。ならば、自らにも同じ、いやそれ以上の説明責任を課さなければならない。
宮司は、メディア不信という言葉を軽々しく煽りたいのではない。報道が不要だと言いたいのでもない。むしろ、健全な報道は国家にとって必要である。真実を掘り起こし、権力の慢心を戒め、弱き声を世に届ける報道は、社会の大切な働きである。しかし、その大切な働きであるからこそ、堕落してはならない。読者の怒りを商品にしてはならない。人の名誉を消耗品にしてはならない。正義の名を借りて、印象操作をしてはならない。国民の知る権利に応えるというならば、国民に正確な文脈を渡す責任まで負わなければならない。
神道には、祓い清めという営みがある。穢れを祓い、心を正し、曇りを除く。今のメディアにも、祓いが必要である。速さへの執着を祓う。売れる見出しへの執着を祓う。敵味方で物事を見る心を祓う。読者の怒りを煽る快感を祓う。自分たちは正義の側にいるという慢心を祓う。報道に携わる者は、筆を取る前に、カメラを回す前に、見出しを打つ前に、自らの心を問うべきである。この言葉は真実に近づいているのか。それとも人を一定の印象へ導こうとしているのか。この編集は公正か。それとも自分たちの結論に都合よく整えられているのか。
日本人は、古来、言霊を重んじてきた。言葉には霊が宿る。祝詞は、言葉によって場を清め、心を整え、神々へ祈りを届ける。反対に、軽い言葉、荒い言葉、偽りの言葉は、人の心を曇らせ、世を乱す。メディアの言葉もまた、現代の大きな言霊である。新聞の見出し、週刊誌の記事、テレビのテロップ、ネット記事のタイトル、SNSに流れる短い文。その一つ一つが人の心を動かしている。ならば、そこには祝詞に通じるほどの慎みが必要である。もちろん報道は祝詞ではない。だが、言葉で世を動かすという点において、その責任の重さを忘れてはならない。
宮司は、今回の出来事を機に、メディア全体が己を省みるべきだと思う。誤りは誰にでも起こり得る。人間のすることに完全はない。しかし、誤った時にどう振る舞うかで、その者の品格が表れる。小さく訂正して済ませるのか。責任を曖昧にするのか。読者に分かりにくい場所で説明するのか。それとも正面から誤りの性質を明らかにし、なぜ起きたかを説明し、再発を防ぐために自らを律するのか。メディアが他者の不誠実を厳しく問うならば、自らの不備に対しても、逃げず、隠さず、潔く向き合わねばならない。
今の日本に必要なのは、報道を敵視することではない。報道を甘やかさないことである。メディアを憎むことではない。メディアに本来の使命へ立ち返れと厳しく求めることである。真実を追う者は、真実に仕える者でなければならない。世論を動かす者は、世論に媚びる者であってはならない。権力を監視する者は、自らもまた国民から監視される存在であることを忘れてはならない。
参考記事
産経新聞「週刊文春『高市早苗首相に関する記事について』 “重要なお知らせ”サイトに掲載 内容伝え『次号にて取材経緯を説明』」

