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安倍晋三元総理銅像建立

三日月に祈りし武士の魂

山中鹿之介幸盛 ─ 滅びを越えて貫いた一念

天正6年7月17日、備中高梁川の阿井の渡しにて、ひとりの武将が護送の途上にて謀殺された。享年34。出雲国の戦国武将、山中鹿之介幸盛である。鹿之介を語るに、必ず引かれる逸話がある。三日月に向かい「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという、あの一節である。月の満ちて欠けるさまに己が身を重ねたか、あるいは満たされぬものこそが志を磨く糧と知っていたか。鹿之介は艱難辛苦を遠ざける祈りではなく、これを我が身に呼び寄せる祈りを捧げた。月に向かって己を試してくれと願った男である。

山中鹿之介、本名は幸盛という。出雲国月山富田城の麓に生まれ、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む尼子一門の家柄に育った。父を早く亡くし、母の手によって育てられたと伝えられる。16歳にして家督を継いだ折、家伝の冑を譲り受けた。三日月の前立に鹿の角の脇立を備えたその冑は、いかにも鹿之介の生涯を象徴する佇まいであった。山中鹿之介の名は、この冑に由来するとも語り継がれている。

時は戦国、安芸の毛利元就が出雲へと侵攻する。永禄5年に始まる月山富田城の攻防戦は、3年余の長きに及んだ。鹿之介は20歳の頃、毛利方の剛将・品川大膳と一騎打ちに臨み、見事これを討ち取った。敵将は鹿之介の武名を恐れ、自らを「狼介勝盛」と名乗ってこれに挑んだという。狼が鹿を喰らうとの縁起をかついだのである。されど死闘は鹿之介の勝利に終わり、その武名は中国地方一円に轟いた。古来、鹿之介を評して「楠木正成より勝る」とまで言われたのは、ゆえなきことではない。

しかし永禄9年、籠城は限界に達し、主君・尼子義久は毛利に降伏した。山陰山陽11州の太守と謳われた尼子氏は、ここに滅亡する。常人ならば、この時点で武器を捨て、新たな主を求めて生きるであろう。されど鹿之介は違った。出雲大社にて義久と今生の別れを告げた鹿之介は、その日より生涯を尼子家再興に捧げると誓ったのである。縁結びの社が、主従の今生の別れの場と相成った。鹿之介はそこから、ただ一人の道を歩み始めた。

牢人となった鹿之介は京に上り、仏門に入っていた尼子勝久を還俗せしめて旗頭とし、再興軍を起こした。永禄12年には毛利の城を立て続けに16も抜き、出雲をほぼ手中に収めるに至った。されど志は半ばで挫けた。布部山の戦いに敗れ、毛利の捕虜となるも、赤痢を装って厠より脱出するという離れ業を演じ、再び織田信長を頼って起ち上がった。一度ならず二度三度と倒れ、そのたびに泥を払って立ち上がる男であった。

天正5年、羽柴秀吉による中国地方攻略に従軍し、播磨上月城を攻略。ここに再び尼子の旗を立てた。されど翌年、毛利の大軍に囲まれ、信長は別所攻略を優先して救援を許さず、上月城は孤立無援となった。主君・尼子勝久は自らの切腹と引き換えに城兵の助命を乞い、これを果たした。鹿之介は捕えられ、護送の途上、阿井の渡しにて命を落とした。時に天正6年、34歳の若さであった。

この生涯を辿るとき、勝利と栄達の物語はどこにも見出せぬ。あるのは敗北と再起、再起と敗北の繰り返しのみである。三日月に祈った七難八苦は、文字通りに鹿之介の身を覆い尽くした。されば鹿之介は、不幸であったか。否、断じて否である。武士の値打ちとは何を成し遂げたかではない。何を貫いたかである。鹿之介は、ついに何ひとつ成し遂げなかった。尼子家は再興されず、主君は腹を切り、己は河原にて討たれた。されど鹿之介は、ただひとつの志を、命の終わりまで貫き通したのである。これに勝る尊さがあろうか。

明治の代、自由党の板垣退助は議会解散の前夜、党員を激励する演説のなかで鹿之介を引いた。三日月の微々として雲間に光る、その不満なる有様こそ志士の心に通うものであると説いたのである。江戸の講釈師らは鹿之介を語り継ぎ、戦前の修身の教科書はその姿を子らに教えた。日本人は長らく、この山陰の麒麟児を心の鏡としてきたのである。富にも栄誉にも背を向けて、ただ義のためにのみ生きる者の姿を、子に孫に語り継いできたのである。

されど戦後、鹿之介の名は教科書から消えた。忠義という言葉は古びた札の如く扱われ、滅びゆくものに己を捧げる生き方は、愚かしきものとして退けられた。効率と打算と、束の間の幸福こそが正義となり、命を懸けて貫くべき志など嘲笑の的となった。日本人は、三日月に祈る心を失ったのである。家の為に命を賭す者は時代遅れと笑われ、国の為に身を捨つる者は危険な徒輩と疎まれた。かくて我らの祖父曾祖父が当たり前に持ちおりし武士の血は、いつしか地下深く沈み、表に出ぬものとなった。

宮司は思う。打算のみに生きる者の魂は、果たしていずこへ行くのか。幸福のみを追い求める社会は、いかなる未来を子孫に遺すのか。鹿之介の34年の生涯は、今を生きる我らに、ひとつの問いを突きつけている。お前は何のために生きるか。お前は何を貫くか、と。物の豊かさだけで人は満たされぬ。命を懸けるに値する何かを胸に抱かぬ限り、人は獣と変わらぬのである。

戦国の世にあって、滅びゆく主家を再興せんと、ひとり山陰の地で旗を立てた武将がいた。一度ならず二度三度と敗れ、それでもなお立ち上がり、ついに河原に屍を曝した男がいた。その魂は450年の時を越えて、なおこの国の土に染み入っている。三日月の光に照らされて、いまも我らの胸の奥に微かに息づいているのである。日本人がこの国の民であるかぎり、鹿之介の血は絶えてはおらぬ。

子らに伝えねばならぬ。日本という国には、勝つことよりも貫くことを尊んだ者たちがいたと。富や名誉のためではなく、ただ義のためにのみ命を懸けた者たちがいたと。安倍晋三公が凶弾に斃れてなお、その志を継がんとする者の絶えぬのも、この国に脈々と流れる鹿之介の血ゆえである。我らがこれを語り、これを伝えるかぎり、武士の魂は未来へと甦る。子は親を見て育ち、孫は祖父の語る昔話に育つ。家庭にて、社にて、教場にて、鹿之介を語り継ぐことこそが、日本人の魂を未来に繋ぐ最も確かな道である。

三日月よ、いま一度この国を照らせ。願わくば、我らにも七難八苦を与えたまえ。されど志は、断じて折れぬ。鹿之介の祈りはいまや我らの祈りである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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