国民と痛みを共にされる天皇ご一家。須崎御用邸でのご静養取りやめに思う

宮内庁は、天皇皇后両陛下と敬宮愛子内親王殿下が、八月三日から予定されていた須崎御用邸でのご静養を取りやめられると発表した。熊本県で最大震度七を観測した地震により、甚大な被害が生じていることに、深く心を痛めておられるという。
この報に接し、宮司は胸が熱くなった。
天皇陛下は、政治的な言葉をもって国民を導かれるのではない。常に国民の安寧を祈り、苦しむ者があれば、その痛みに静かに御心を寄せられる。そのお姿によって、日本という国のあるべき姿を示しておられるのである。
本来、ご静養は決して贅沢なものではない。日々、国と国民のために公務を重ねられる天皇ご一家にとって、心身を休められる大切な時間である。にもかかわらず、熊本で多くの人々が被災し、不安な夜を過ごしている時に、ご自分たちだけが静養することはできないとお考えになったのであろう。
ここに、日本の皇室の尊さがある。
天皇陛下は、国民の上に立って命令する存在ではない。国民と共に喜び、国民と共に悲しみ、すべての人々の幸福を祈り続けられる御存在である。被災地へ御心を寄せられることは、誰かに求められてなされるものではない。国民を思うお気持ちが、自然にお振る舞いとなって表れたものである。
日本の長い歴史において、天皇は常に民の安寧を祈ってこられた。国に災いがあれば鎮まりを祈り、飢饉があれば民の暮らしを案じ、戦乱や災害によって命が失われれば、御霊の平安を祈られてきた。
天皇の大御心とは、自己を中心に置く心ではない。
国民の悲しみを我が悲しみとし、国民の苦しみを我が苦しみとする心である。今回のご静養取りやめもまた、その大御心の表れではないだろうか。
現代社会では、自分の権利や利益ばかりが語られる。自分が楽しめればよい。自分さえ無事ならよい。他人の苦しみは、自分には関係がない。そのような風潮が広がれば、国も社会も次第に冷たいものとなる。
しかし、人間は一人では生きられない。
誰かが苦しんでいる時に心を寄せる。困っている者があれば、自分にできることを考える。喜びを分かち合い、悲しみを共にする。その心が、人と人を結び、国を一つにするのである。
天皇ご一家のお姿は、我々一人ひとりにも問いかけている。
被災された方々のために、何ができるのか。遠く離れているからと無関心になっていないか。根拠のない情報を広めることなく、必要な支援へ心を向けているか。自分の日常を守りながらも、苦境にある人々を忘れずにいるか。
祈ることも支援である。正しい情報を伝えることも支援である。救援に携わる方々へ感謝することも支援である。そして、自らが暮らす地域で災害への備えを見直すことも、次の命を守る大切な行いである。
天皇皇后両陛下と敬宮愛子内親王殿下が、被災地へ御心を寄せ、ご静養を取りやめられた。その静かな御決断には、どれほど多くの被災者が励まされることだろう。
皇室は、国民が苦しむ時に遠くから眺めておられるのではない。いつも国民と共にあり、祈りをもって寄り添ってくださっている。
これこそ、日本の国柄である。
宮司もまた、熊本の被災地に一日も早く平穏な暮らしが戻ることを、心から祈りたい。亡くなられた方々の御霊の安らかならんことを祈り、被害に遭われたすべての皆様へ、謹んでお見舞いを申し上げる。
そして今なお、救助、医療、復旧に力を尽くしている警察、消防、自衛隊、自治体、医療関係者、民間事業者、地域住民の皆様に、深い敬意と感謝を捧げたい。
国民の痛みを御自分の痛みとして受け止められる天皇ご一家。その御心を仰ぎ、我々もまた、互いを思いやり、支え合う日本人でありたい。
