虎視眈々。目を見開き、志を遂げる日本人の覚悟

『易経』頤卦に、こうある。
「虎視眈々として其の欲遂たり、咎無し」
虎が獲物を見据えるように、鋭い目でじっと機をうかがい、望むべきものを遂げる。その姿に咎はない、という意味である。
一見すると、欲を肯定する言葉のようにも聞こえる。何かを得ようとする姿、獲物を狙う姿、じっと相手を見つめる姿には、どこか恐ろしさもある。しかし宮司は思う。この言葉は、浅ましい欲望をすすめているのではない。漫然と生きるな、目を見開け、時を読め、備えを怠るな、そして遂げるべき志を遂げよという、極めて厳しい教えである。
虎は、むやみに走らない。むやみに吠えない。獲物の動きを見、風を読み、間合いを測り、時を待つ。力があるからこそ、静かである。牙があるからこそ、軽々しく動かない。だが、いざという時には迷わない。一瞬の機を逃さず、全身をもって飛びかかる。
これが、虎視眈々である。
今の日本に欠けているのは、この目ではないか。見るべきものを見ず、考えるべきことを考えず、備えるべきことを備えず、ただ目先の安心にすがっている。耳ざわりのよい言葉に流され、短い流行に踊らされ、国の大きな進路を見失っている。政治も、経済も、教育も、家庭も、どこか腰が引けている。
宮司は、これを憂う。
政治家は、虎視眈々として国家の行く末を見なければならない。世界は優しい場所ではない。国際社会は、善意だけで動いているのではない。各国はそれぞれの国益を背負い、歴史を背負い、資源を背負い、軍事を背負い、技術を背負い、未来の覇権を見据えて動いている。その中で日本だけが、曖昧な笑顔とその場しのぎの言葉で生き残れるはずがない。
平和を願うことは尊い。しかし、平和を願うなら、平和を守る力を持たねばならない。対話を重んじることは大切である。しかし、対話を成立させるには、相手から侮られない背骨が要る。友好は美しい。しかし、友好の名のもとに国益を差し出すなら、それは政治ではない。国民への背信である。
政治とは、人気取りではない。政治とは、国家の命を預かる仕事である。今日の拍手ではなく、百年後の子供たちに何を残すかを問う仕事である。目の前の支持率ばかりを見て、歴史の流れを見ない政治家は、虎ではない。檻の中で餌を待つだけの獣である。
令和の政治に必要なのは、虎の目である。
国土を見よ。海を見よ。島を見よ。食料を見よ。エネルギーを見よ。技術を見よ。教育を見よ。人口を見よ。皇室を敬い、歴史を学び、祖国の守りを固めよ。何が日本を生かし、何が日本を蝕んでいるのか。全方位に目を開き、静かに、しかし断固として手を打たねばならない。
経営者もまた、虎視眈々でなければならない。会社とは、ただ利益を出す箱ではない。働く人の暮らしを支え、技術を育て、地域を支え、国の産業を担う大切な器である。目先の数字だけを追い、人を消耗品のように扱い、国内の技術と雇用を軽んじるならば、それは経営ではない。商いの道を失っている。
日本の商いには、信用があった。約束を守る。品物を粗末にしない。客を欺かない。職人の手を尊ぶ。長く続くことを恥じず、むしろ誇りとする。そこには、利益を超えた道があった。もちろん、利益は必要である。利益がなければ会社は続かない。だが、利益だけを神のように拝めば、人の心は荒み、会社の根は枯れていく。
虎視眈々とは、強欲にむさぼることではない。志ある欲を持つことである。
もっと良いものを作りたい。働く人を守りたい。地域に役立ちたい。日本の技術を次の世代へ渡したい。世界の中で日本の誠実なものづくりを示したい。この欲は、卑しい欲ではない。人を生かし、国を立てる欲である。そうした志を遂げるために、経営者は市場を見、世界を見、人の心を見、時代の変化を見抜かなければならない。
教育もまた、目を覚まさねばならない。今の教育は、子供たちに何を見せているのか。点数だけを見せていないか。偏差値だけを見せていないか。自分らしさという言葉の陰で、耐える力、尽くす心、祖国を愛する心を教えることから逃げてはいないか。
子供たちは、日本の未来である。その子供たちに、国の歴史を教えず、父母祖先への感謝を教えず、礼節を教えず、働く尊さを教えず、ただ権利ばかりを教えたなら、どのような国が出来上がるのか。自分の足元を知らぬ者に、世界へ立つ力は生まれない。根のない木は、少し強い風が吹けば倒れる。
宮司は、子供たちに大きな夢を持ってほしいと思う。だが、夢はふわふわした言葉ではない。夢とは、己を鍛え、学び、失敗し、また立ち上がり、現実の中で形にしていくものである。虎の目を持て。自分の進む道を見よ。何を学ぶべきか、誰のために力を使うべきか、自分は祖国に何を返すべきかを考えよ。
家庭もまた、虎視眈々であるべきである。家庭とは、国の根である。家が乱れれば、国も乱れる。父母が子を見ず、子が父母を敬わず、夫婦が互いを粗末にし、祖先を忘れ、神棚も仏壇も遠ざけるならば、そこに心の柱は立たない。
大げさなことではない。朝に挨拶をする。食事に感謝する。親の苦労を思う。子供の話を聞く。墓前に手を合わせる。神前に頭を下げる。家の中を整える。こうした小さな営みが、人の心を養う。虎の目とは、遠くの世界を見る目であると同時に、足元の乱れを見逃さない目でもある。
今の日本人は、どこか優しすぎるのではない。むしろ、本当の優しさを忘れているのである。本当の優しさとは、相手が間違っている時に、間違っていると言うことである。子供が甘えている時に、立ちなさいと言うことである。国が危うい時に、危ういと叫ぶことである。耳ざわりのよい言葉で問題を覆い隠すことは、優しさではない。先送りである。
先送りは、咎を生む。
『易経』は「其の欲遂たり、咎無し」と言う。つまり、遂げるべき欲を遂げるなら、咎はないのである。逆に言えば、遂げるべき志を遂げず、見るべきものを見ず、やるべきことをやらないなら、そこには咎が生まれる。国を守るべき者が守らない。教育を正すべき者が正さない。会社を支えるべき者が支えない。家庭を整えるべき者が整えない。それは、咎なしとは言えない。
日本は今、厳しい時代のただ中にある。人口は減り、地方は疲れ、家庭は弱り、教育は揺れ、世界は荒れている。技術も、食料も、エネルギーも、安全保障も、すべてが問われている。にもかかわらず、私たちはまだ、どこかで誰かが何とかしてくれると思ってはいないか。政治家が悪い、役所が悪い、学校が悪い、会社が悪い、世の中が悪いと嘆きながら、自分の足元を正すことを忘れてはいないか。
宮司は言いたい。
目を覚ませ、日本人。
虎のように見よ。眠たげな目で祖国を見るな。人任せの目で未来を見るな。自分には関係ないという目で政治を見るな。どうせ変わらないという目で社会を見るな。日本を守るのは、誰か特別な人だけではない。政治家も、経営者も、教師も、親も、若者も、働く一人一人も、それぞれの場所で日本を支えているのである。
神道は、清明正直を尊ぶ。清く、明るく、正しく、直く生きる。これは弱々しい道徳ではない。心を清め、目を明らかにし、正しいものを正しいと見抜き、曲がったものを曲がっていると言う強さである。清い心とは、濁った時代を見ない心ではない。濁りを見た上で、自分の心まで濁らせない力である。
虎視眈々とは、怒りに任せて噛みつくことではない。冷静に見ることである。静かに備えることである。時を逃さず動くことである。そして、遂げるべき志を最後まで遂げることである。
安倍晋三元総理が「日本を取り戻す」と訴えられた時、その言葉の底には、日本人よ目を覚ませという響きがあったように宮司は感じる。日本は自然に守られるのではない。日本は、祈り、学び、働き、守ろうとする人々によって守られる。祖国を愛する心を、ただ懐かしむだけでは足りない。愛するならば、守らねばならない。守るならば、見ねばならない。見るならば、動かねばならない。
今日、私たちは何を見るのか。
今日、私たちは何を備えるのか。
今日、私たちは何を遂げるのか。
この問いから逃げてはならない。虎視眈々の教えは、政治家や経営者だけのものではない。今を生きる日本人一人一人への問いである。自分の欲は、ただ自分を満たすための欲か。それとも、人を生かし、家を立て、地域を支え、祖国を未来へつなぐための志か。
卑しい欲を捨てよ。
志ある欲を持て。
全方位に目を開け。
機を逃さず行動せよ。
そして、祖先に恥じぬ務めを果たせ。
虎視眈々。
この四字を、ただ獲物を狙う目つきとして読んではならない。これは、己の務めから目を逸らさぬ者の姿である。国を思うなら国を見る。家を思うなら家を見る。子を思うなら子を見る。未来を思うなら、未来を奪うものにも、未来を育てるものにも、目を伏せてはならない。
日本人よ、もう眠たげな目で時代を眺めるのはやめようではないか。
静かに見よ。深く学べ。怠らず備えよ。そして、ここぞという時には、言うべきことを言い、なすべきことをなせ。そこにこそ、祖先から受け継いだ日本人の胆力がある。咎なき欲とは、私利私欲ではない。祖国と子孫のために、どうしても遂げねばならぬ志のことである。
その志を失わぬ限り、日本はまだ終わらない。
