後藤新平に学ぶ、百年先へ大和魂を継ぐ覚悟

学校を出づる時は、教科書と筆記録とを焼却し、改めて社会的新学生となる覚悟あれ。
後藤新平のこの言葉を読むたび、宮司は、学ぶということの本当の意味を考えさせられる。これは単なる卒業の心得ではない。人が一つの場所を離れ、新たな時代、新たな現実、新たな責任の中へ進み出る時、過去に学んだ知識に安住してはならぬという、人生そのものへの厳しい戒めである。
学校で学んだことを軽んじよというのではない。宮司がこの言葉に深く頷くのは、真に学んだ者であるならば、学んだ知識を偶像にしてはならぬと教えられるからである。教科書に書かれた言葉、筆記録に写し取った知識、それらは尊い。しかし、それを握りしめたまま現実を裁き、時代の変化を恐れ、人の痛みを知らず、社会の呼吸を見失うならば、その知識は生きた智慧とはならない。
白紙でのぞむとは、無知になることではない。慢心を捨てることである。宮司は、そこに後藤新平の凄みを見る。過去の自分を一度焼き尽くし、現実の前に謙虚に立ち、なお学び続ける覚悟を持つこと。後藤の言葉は、百年を越えてなお、今を生きる者の胸を打つ。
後藤新平は、明治という激動の時代に生まれ、医師として出発しながら、衛生、台湾統治、満鉄、鉄道、通信、都市計画、震災復興、青少年教育、放送、政治の倫理化に至るまで、まことに広大な仕事を成し遂げた人物である。宮司がその歩みを眺めるとき、そこに見えるのは単なる能吏の器用さではない。国家を一つの生命体として見つめ、その生命をいかに衛り、いかに育て、いかに未来へ手渡すかを考え抜いた、日本人の大いなる魂である。
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後藤の原点には医学があった。しかし、その医学は病床の一人を診るところに留まらなかった。彼の眼は、社会そのものへ向けられていた。衛生とは、ただ病を防ぐことではない。生を衛ることである。人々の暮らしを衛り、都市を衛り、国家を衛り、未来に生まれてくる子供たちの命を衛ることなのである。
この「生を衛る」という思想を、今の日本はどれほど持ち得ているだろうか。宮司は、後藤新平の生涯に触れるほど、この問いを避けて通ることができなくなる。
国を衛るとは、ただ国境を守ることだけではない。家庭を衛ること、教育を衛ること、歴史を衛ること、言葉を衛ること、信仰を衛ること、そして子供たちの心の中に、日本人としての誇りを衛り抜くことである。国の形は、制度だけで保たれるものではない。そこに生きる国民の心が荒れ果てれば、いかに立派な建物があり、いかに便利な機械があり、いかに豊かな消費があっても、その国は内側から崩れていく。
後藤新平は、台湾においても、満洲においても、東京においても、常に目先の人気ではなく、未来の骨格を考えた。鉄道を敷くとは、単に線路を引くことではない。都市を造るとは、単に道路や建物を並べることではない。宮司はそこに、後藤の仕事の本質を見る。そこに人が集い、学び、働き、暮らし、子を育て、文化を生み、やがて次の時代へつながっていく大きな流れを造ることなのである。
百年先を読む政治家とは、百年後の人々の拍手を求める者ではない。百年後の人々が、自分の名を知らずとも、その仕事の上に立って暮らしていることを願う者である。そこに、まことの公の心がある。
今の日本に欠けているものは、能力ではない。技術でもない。情報でもない。百年先を思う精神である。宮司は、現代の政治や教育や言論を見つめるたび、この一点に深い危機感を覚える。
目先の利益に追われ、目先の選挙に追われ、目先の批判を恐れ、目先の空気に流される。百年先どころか、十年先を語ることすら難しくなっている。教育はどうあるべきか。国防はどうあるべきか。地方はどう生き残るべきか。神社と地域の祈りは、どのように子や孫へ受け継がれるべきか。日本語は、日本の歴史は、日本の神話は、日本人の魂は、百年後に本当に残っているのか。
この問いから逃げてはならない。
後藤新平は、最後にこう言い遺したという。
「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。」
宮司は、この言葉こそ、後藤新平が令和の日本に残した遺言であると思う。金を残すことも、仕事を残すことも、決して無意味ではない。しかし、もっとも尊いのは人を残すことである。志を持つ人を残すこと。国を思う人を残すこと。神々と祖先に恥じぬ心を持つ人を残すこと。自分の利得だけでなく、百年後の日本を思って立ち上がる人を残すこと。これこそが、まことの教育であり、まことの政治であり、まことの信仰である。
今必要なのは、評論家ではない。傍観者でもない。嘆くだけの人でもない。後藤新平のように、学び続け、考え続け、働き続け、倒れてもなお起き上がる不倒翁の精神を持つ人である。
学校を出たら、白紙で世に向かえ。
これは、過去を捨てよという意味ではない。学んだものに執着せず、常に新たな心で現実に向き合えということである。宮司は、この言葉を、若者だけでなく、すべての日本人が胸に刻むべき言葉として受け止めている。古きものを敬いながら、新しき時代を恐れぬこと。祖先の智慧を抱きながら、未来のために手を汚して働くこと。これが、日本人の本来の姿である。
大和魂とは、ただ勇ましい言葉を叫ぶことではない。宮司が後藤新平の生涯から受け取る大和魂とは、困難の中にあっても己を失わず、公のために身を尽くし、見返りを求めず、未来の子供たちのために今日の一歩を積み重ねる心である。後藤の生涯は、そのことを静かに、しかし力強く教えている。
学び直せ。考え直せ。働き直せ。そして、志ある人を残せ。
宮司は、この言葉を自らにも向けている。自分一代の満足で終わってはならない。百年先の日本を思わねばならない。子や孫が、神々と祖先に手を合わせ、日本人として胸を張って生きられる国を残すために、今日、自分は何をすべきかを問わねばならない。
金を残すよりも、仕事を残せ。仕事を残すよりも、人を残せ。そして人を残すために、まず己自身が、後の世に恥じぬ人間とならねばならない。
それが、宮司が後藤新平の言葉から受け取る令和への戒めであり、未来へ大和魂を継承する、われら日本人の大切な使命なのである。
