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安倍晋三元総理銅像建立

世界を包み込む日本の宗教観。地球を鎮める神道の心

宮司には、いつも口にする言葉がある。

「この宇宙には、これでなければならないものなど、何もないんだよ」

一つだけが絶対に正しく、それ以外はすべて誤りである。そのように物事を狭く決めつけるのではなく、それぞれの違いを認め、互いの役割を尊び、大きな調和の中に包み込んでいく。この心こそ、縄文の昔から日本人の魂に受け継がれてきた哲理ではないかと、宮司は思う。

世界は今、民族と民族、国家と国家、宗教と宗教がぶつかり合い、憎しみが新たな憎しみを生む連鎖の中にある。自分たちだけが正しく、異なる者は排除してもよい。その独善が人の心を狭くし、争いを深くしている。だからこそ宮司は思う。世界を包み込み、地球を鎮める道は、日本の神道の中にあるのではないか。

日本人の心のふるさとは、神社である。まだ薄暗い朝、鳥居をくぐり、玉砂利を踏み、静かな境内に立つ。手水で手と口を清め、神前に進み、黙って頭を下げる。誰かに命じられたわけでもない。難しい教義を唱えるわけでもない。それでも、騒いでいた心が不思議と鎮まり、自分が大いなるものに包まれているような安らぎを覚える。

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それは、神が遠い天上にだけおられるのではなく、森にも、山にも、川にも、風にも、光にも、そして自分の命の中にも宿っておられることを、日本人の魂が知っているからである。

神道は、自然を征服すべき対象とは考えない。太陽を仰ぎ、月を愛で、山を畏れ、滝に祈り、大樹に手を合わせる。水にも、岩にも、田畑にも神々の働きを感じ、その恵みに感謝して生きてきた。八百万の神とは、神の数を数える言葉ではない。この天地自然のあらゆるところに尊い命の働きを見いだし、粗末に扱わぬ日本人の心なのである。

節分には、恵方を向いて巻き寿司をいただき、鰯を飾り、豆をまく。「鬼は外、福は内」と唱える地方もあれば、吉野山のように「鬼も内、福も内」と唱えるところもある。鬼さえも追い払うだけではなく、その内に迎え入れ、改心と救いの道を残しておく。ここにも、日本人の宗教観の懐の深さがある。

日本人は、正月には神社へ初詣に行き、子供が生まれればお宮参りをし、七五三には成長を神々に感謝する。先祖の法要では寺に参り、盆には亡き人の御霊を迎え、クリスマスには家族や友人と喜びを分かち合う。家の中に神棚と仏壇がともにあり、御朱印帳には神社と寺の印が並ぶこともある。

これを「宗教的節操がない」と笑う者もいる。しかし、宮司はそうは思わない。これは節操がないのではない。異なるものを争わせず、それぞれの良さを認め、暮らしの中に自然に溶け込ませてきた日本人の知恵である。仏教が伝来すれば排斥するだけでなく、神仏習合という日本独自の形に育てた。外から来た文化を受け入れながらも、日本の心を失わず、より大きな調和へと結び直してきたのである。

神社には学問の神がおられ、商売繁盛の神がおられ、縁結びの神、厄除けの神、海を守る神、山を守る神がおられる。どの神が一番で、他の神は劣るというものではない。それぞれに御神徳があり、それぞれの御役目がある。全国の神社が互いを否定することなく、日本列島の津々浦々に鎮座し、地域と人々の暮らしを見守っている。

神道は、「自分だけが正しい」と他者に迫る道ではない。自分を大切にする。同時に他人も大切にする。自分の国を愛する。同時に他国の人々にも、それぞれ守るべき祖国、伝統、祈りがあることを認める。違いを消し去るのではなく、違いを持ったまま調和する。それが神道の包容力である。

世界の争いを、特定の宗教だけに帰することはできない。宗教そのものではなく、信仰を利用して他者を支配し、異なる者を排除しようとする人間の独善こそが問題なのである。いかなる宗教であっても、命を尊び、人を救い、苦しむ者に寄り添う時、それは平和への力となる。反対に、教えを権力や憎悪の道具にすれば、宗教の名の下に人の命が奪われる。

宮司が申し上げたいのは、神道だけが正しく、他の宗教は誤りだということではない。そのように言った瞬間、神道の本義から離れてしまう。神道の大切さは、他の信仰を攻撃せず、それさえも大きく包み込むところにある。神道が世界に示すべきものは、優越ではなく調和であり、征服ではなく共生であり、強制ではなく感謝なのである。

日本人は「無宗教だ」とよく言う。しかし、朝日を見て手を合わせ、食事の前に「いただきます」と言い、先祖の墓を掃除し、正月には氏神様へ参る。古い木を切る時には心を痛め、山や海を汚すことを恐れ、亡くなった人をいつまでも身近に感じている。これを本当に無宗教と呼べるだろうか。

日本人の信仰は、言葉や教義として前面に出るのではなく、生活の中に溶け込んでいるのである。意識していなくとも、日本人の魂の奥には鎮守の森がある。そこには氏神様がおられ、祖先の祈りがあり、幼い頃に聞いた祭囃子があり、ふるさとの山河がある。心が疲れた時、なぜか神社へ行きたくなるのは、魂が帰るべき場所を覚えているからである。

戦後の靖國神社をめぐっても、宗派を超えた敬意を示した外国人がいた。カトリックのブルーノ・ビッテル神父は、占領期に伝えられた靖國神社の廃止・焼却論に対し、国のために命を捧げた人々へ敬意を払うことは、国家の権利であり義務であるとの趣旨から、その存続を訴えたと伝えられている。

異なる宗教を信じる者であっても、敬虔な心を持つ者には、祖国のために亡くなった人々を祀り、感謝を捧げる日本人の精神が理解できたのである。大切なのは、どの宗教に属しているかだけではない。目に見えぬものを敬い、死者を悼み、受けた恩を忘れず、他者の祈りにも敬意を払えるかどうかである。

今、日本人自身が神道を知らなくなりつつある。神社と寺の違いも、氏神様の意味も、祭りがなぜ受け継がれてきたのかも分からない若者が増えているという。これは、ただ宗教の知識が失われるだけの問題ではない。自然への畏敬、祖先への感謝、地域の結びつき、命は自分一人のものではないという慎みまで失われてしまう危険がある。

神道とは、厳しい戒律で人を縛るためのものではない。自然を畏れ、恵みに感謝し、祖先を敬い、人と人、人と自然が調和して生きるための道である。それは宗教という言葉だけには収まりきらない、日本人の暮らしであり、文化であり、心の根である。

宮司は、世界へ向けて問いかけたい。

地球を鎮めるのは、日本の神道ではなかろうか。

それは、世界を神道へ改宗させるという意味ではない。それぞれの民族、それぞれの信仰、それぞれの文化を尊びながら、互いに共存する道を、日本の神道精神が示せるのではないかということである。一つの正しさですべてを塗り潰すのではなく、八百万の違いを認め、大きな和の中に結ぶ。その日本人の心こそ、分断の時代に必要な叡智なのである。

この宇宙には、これでなければならないものなど、何もない。太陽には太陽の役目があり、月には月の役目がある。山には山の尊さがあり、川には川の恵みがある。人もまた同じである。それぞれが異なるからこそ、互いに補い合い、一つの世界を形づくることができる。

甦れ、鎮守の森を心のふるさととし、神々と祖先への感謝を忘れぬ日本人の魂。甦れ、異なるものを排除せず、世界を大きな和の中に包み込む神道の心。

日本國の再生は、日本人が己の心の奥にある氏神様を思い出すところから始まる。そして世界の平和もまた、互いの違いを認め、敬い、共に生きようとする一人ひとりの祈りから始まるのである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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