天地これ師なり。山鹿素行の精神が今に問う日本の根本

天地これ師なり、事物これ師なり。山鹿素行のこの言葉に、宮司は長年、尽きることのない示唆を見出してきた。学問とは書物の中に閉じ込められた知識ではなく、天地自然の理と日々の営みそのものに学ぶ姿勢であるという宣言である。

天地は何も語らぬ。しかし偏ることなく、分け隔てなく、万物を育み、支えている。その在り方こそが、最も正しく、最も厳粛な教えである。素行はそこに師を見た。人が人を教える以前に、人は天地から学ばねばならぬという覚悟である。

山鹿素行は儒者であると同時に兵学者であり、文と武を分断しなかった人物である。学とは生き方そのものであり、実際の世に役立たねば意味がないとする日用有用の学を説いた。その思想は、机上の空論を退け、己の立つ場所で責任を果たすことを求めるものであった。

「士道論」において説かれた「本を立てる」という言葉は、その象徴である。本とは根本であり、筋道である。志を定め、己の職分を知り、その志を日々勤め行う。この三つが揺らぐとき、人は天地の理から外れ、禽獣にも劣る存在となると素行は断じた。

赤穂における山鹿素行の存在は、後世に語られる忠臣蔵の精神的背景として極めて大きい。赤穂浪士の討ち入りを、単なる情念や復讐として矮小化することは、日本人の精神史を見誤ることにつながる。君恩に報い、節を守り、己の生を賭して筋を通す。その覚悟の背後には、素行の学が深く根を下ろしていた。

素行が著した「中朝事実」は、そうした精神の集大成とも言える書である。当時、朱子学とともに蔓延していた中華思想に対し、歴史の事実をもって反論したのが本書であった。中国こそ文明の中心であり、日本は辺境にすぎないという思い込みに、素行は静かに、しかし断固として異を唱えた。

王朝が幾度も断絶し、主従の義が崩れ去った大陸の歴史と、万世一系の天皇を戴き、外敵に支配されたことのない日本の歴史。そのどちらが真に「中」に立つ国であるのか。素行は感情ではなく、史実によって問い直した。そこには驕りも排他もない。ただ、日本とは何かを正しく知ろうとする誠実さがある。

宮司は、この「中朝事実」を国粋主義の書として扱う風潮に強い違和感を覚えてきた。本書は他国を貶めるための書ではない。日本人が日本人として立つための、自己認識の書である。自国の歴史と精神を知らぬまま、世界と向き合うことはできないという、普遍的な警鐘なのである。

この書を座右の書とした乃木希典の姿勢にも、同じ精神が通っている。明治という激動の時代にあって、乃木は近代兵器や戦術だけでなく、武人としての根本を問い続けた。その果てに選び取った一冊が「中朝事実」であったことは、極めて象徴的である。

吉田松陰が山鹿流兵学の系譜を引き継ぎ、松下村塾で志士たちを育てたこともまた偶然ではない。素行の教えは、時代を超えて、日本の危機に際して必ず呼び起こされてきた。天地を師とし、志を立て、己の分を尽くす。この単純にして厳しい教えが、日本を支えてきた。

現代の日本は、便利さと引き換えに、根本を見失いつつある。何を守り、何を未来へ手渡すのかが曖昧になり、議論は目先の利害に流されがちである。こうした時代だからこそ、宮司は山鹿素行の言葉に立ち返る必要があると考えている。

天地は今も変わらず、師としてそこに在る。問題は、人がそれを師と仰ぐ覚悟を持つかどうかである。日本人が日本人としての精神を研ぎ澄まし、大和魂を次の世代へ確かに繋いでいくために、「中朝事実」は今なお読むに値する書である。

歴史は過去の物語ではない。精神が受け継がれるか否かによって、未来の姿を決定づける。宮司はそう確信しつつ、山鹿素行の学とともに、日本の歩むべき道を静かに見つめ続けている。

山鹿素行について

山鹿素行は、江戸時代前期に活躍した思想家で、儒学と兵学を融合させた人物である。会津若松に生まれ、幼少より儒学、兵学、神道など幅広い学問を修めた。

当時主流であった朱子学に対し、素行は学問は日常生活に生かされるべきだと考え、「日用有用の学」を説いた。武士の在り方については「士道論」で、志を立て、己の職分を知り、それを貫くことを根本とした。

代表作「中朝事実」では、中華思想を歴史の事実から問い直し、日本は万世一系の天皇を戴き、独立を保ってきた国であると論じた。この書は他国を貶めるためではなく、日本人が自国の精神を自覚するための書である。

思想の違いから赤穂に配流された素行は、現地で多くの藩士を教え、その学びは赤穂浪士や後の吉田松陰にも受け継がれた。

「天地これ師なり、事物これ師なり」という言葉に示されるように、自然と日常に学ぶ姿勢こそが山鹿素行の思想の核心であり、今なお日本人の生き方を問い続けている。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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