「神などいない」と断言できる人間が、この宇宙のどこにいるのか

参拝に来られる方の中に、ときどき、こんなことを言う若者がいる。「宮司さん、科学的に考えれば神様なんていないですよね」と。決して悪意のある言葉ではない。むしろ誠実に、自分の考えを打ち明けてくれているのだとわかる。宮司はそういう時、すぐには答えない。しばらく若者の顔を見て、それからゆっくりと問い返すことにしている。「では、あなたは宇宙のすべてを知っているのですか」と。
近年、無神論を「唯一の正しい立場」として声高に主張する人が増えた。神を信じることは非科学的であり、時代遅れであり、知性の低い人間のすることだと言わんばかりの態度をとる人々が、ネット上にも、街中にも、少なからず存在する。宮司はそのような言葉を聞くたびに、不思議な気持ちになる。その人たちは、科学という言葉を盾にしながら、実は科学の最も根本的な精神を忘れているのではないかと、そう思うからである。
科学の本質とは何か。それは「わからないことを、わからないと認める誠実さ」である。偉大な科学者たちは例外なく、自らの無知の深さに打ちのめされながら研究を続けてきた。ニュートンは晩年、「私は海辺で遊ぶ子どものようなもので、真理の大海原はまだ眼前に広がっている」と語った。アインシュタインは「宇宙について最も理解しがたいことは、宇宙が理解できるということだ」と言い残した。本物の知性とは、知れば知るほど神秘の深さに頭を垂れるものである。神などいないと断言できる人間は、その断言の瞬間に、科学の精神から最も遠いところに立っている。
宮司が神職として社に立つようになってから、三十年近い歳月が流れた。その間に、宮司は数え切れないほどの人間の生死の場面に立ち会ってきた。病の床から奇跡的に回復した人がいた。どう考えても説明のつかない出来事の中で命を救われた人がいた。長年の祈りが、人の理解を超えた形で結実した場面を、宮司は幾度となく目にしてきた。それらをすべて「偶然」と呼ぶことは、宮司にはできない。しかし同時に、それを「神がいる証拠だ」と言い切るつもりもない。ただ、人間の知性では届かない何かが、この世界には確かに働いているという感覚が、宮司の骨の中に深く沈んでいる。
無神論者はしばしば言う。「神が実在するなら証明してみせよ」と。これは一見、合理的な問いに聞こえる。しかし同じ問いを、無神論者自身に向けてみてほしい。「神が存在しないことを、証明してみせよ」と。存在しないことの証明は、存在することの証明よりもはるかに難しい。論理学では「悪魔の証明」と呼ばれるほど困難な問題である。神がいないという結論は、神がいるという結論と同様に、現時点の人類の知性では証明不可能なのだ。それを知りながら「無神論が正しい」と断言することは、誠実な知性の態度ではなく、単なる信仰の一形態に過ぎない。
「この宇宙には、これでなければならない物は何もない」
これは宮司が長年、座右に置いてきた言葉である。自分だけが正しいと思っていることも、正しくない場合がある。この宇宙の広大さの前に立つとき、人間の断言は等しく小さい。神がいると断言することも、神がいないと断言することも、どちらも同じ傲慢さを帯びている。宮司は神職として神を敬い、日々の祭祀を捧げながら、しかし同時に、自分の理解の限界を常に意識してきた。信仰とは、神の存在を論理的に証明することではない。自らの小ささを知り、この宇宙の神秘に向かって謙虚に手を合わせることである。
日本人は古来、「八百万の神」という言葉で世界を捉えてきた。山に神が宿り、川に神が宿り、風にも、岩にも、人の心の奥にも、名前のつけられない何かが満ちている。これは未開の迷信ではない。むしろ自然界のあらゆるものに畏敬を持ち、自分たちが宇宙の一部として生かされているという深い感覚から生まれた、精神の形である。科学が発達した現代においても、この感覚は人間の心に根を張り続けている。なぜなら、科学がどれほど進んでも、「なぜ宇宙が存在するのか」「なぜ命があるのか」という問いに、科学は答えられないからだ。その問いの前に立つとき、人は自然と頭を垂れる。その垂れた頭の先にあるものを、日本人は「神」と呼んできた。
無神論が正しいと断言する人々に、宮司は怒りを感じるわけではない。ただ、静かに惜しいと思う。目の前に広大な海があるのに、足元の砂だけを見て「海とはこれだけのものだ」と言っているような、そういう惜しさである。人間の知性は偉大だ。しかしその偉大な知性があるからこそ、知性の届かない領域があることを知ることができる。その届かない領域に向かって畏れを持つことが、知性の成熟というものではないか。
宮司は今日も、社の前に立ち、柏手を打ち、祈りを捧げる。その祈りが科学的に証明できるものかどうか、宮司には興味がない。この命が今日も生かされていることへの感謝、先祖への報告、この国と世界の安寧への願い——それを捧げる先に、何かが確かにある。その「何か」に名前をつけることよりも、手を合わせることの方が、宮司にはずっと大切に思える。人間が「わからない」と頭を垂れた先に、本物の知恵への扉がある。そう宮司は信じている。
