思いやりこそ、魂の高みへの道。令和の若者よ、心の武士たれ

令和の世を生きる若者たちへ、宮司は今日、問いを一つ投げかけたい。あなたは、自分の外側を磨くことに費やす時間と、内側を磨くことに費やす時間と、どちらが長いか。
スマートフォンの画面を眺め、他者の評価を気にし、見栄えのよい言葉を並べることに心を砕く日々の中で、魂の根っこはどれほど育っているだろうか。宮司はこの問いを、説教として発しているのではない。長い人生の中で、幾度となく自らを問い直してきた、老いた宮司の独り言として聞いてほしいのだ。
かつて宮司が吉野山に奉仕していた頃、名古屋から修学旅行の高校生たちがやってきたことがある。78名の若者たちを前に、宮司はこう話した。どんなに成績が優れていても、どんなに容姿に恵まれていても、弱い者を思いやる心がなければ、人として美しくはない。その言葉は今も、宮司の胸の中で生きている。
令和という時代は、情報の洪水の中にある。SNSが一瞬で世界を繋ぎ、AIが人の仕事を肩代わりし、価値観の多様化という名のもとに、善悪の境界線さえ曖昧になりつつある。こうした時代にこそ、人の魂の根っこが問われる。流れに乗ることは誰にでもできる。しかし流れの中に立って、自らの足で踏みしめる者だけが、本物の高みへと向かうことができる。
宮司が若者たちに伝えたいのは、ただ一つのことだ。「惻隠の情」を磨け、ということである。惻隠の情とは、他者の痛みを我が痛みとして感じる心のことだ。この言葉は孟子が説いたものであるが、日本人はその心をはるか昔から、神道の精神の中に宿してきた。神は人の心の中に宿る。その神の御心こそ、惻隠の情に他ならない。
自分だけが幸せであればよいという、小さな心の人間で一生を終えてはならない。足の不自由な者の杖となれ。声を持たぬ者の代わりに声を上げよ。損得で物事を測る哀れな人間ではなく、思いやりと勇気と調和をもって人に接する者であれ。これは宮司が菊里高校の若者たちに語りかけた言葉であるが、あれから幾年が過ぎた今も、その言葉の重みは少しも変わっていない。むしろ、令和の今こそ、この言葉はより深く問われている。
日本の魂が高みに向かうとは、どういうことか。それは個人が偉くなることではない。国が豊かになることでもない。一人ひとりの日本人が、他者を思いやる心を取り戻し、その心を日々の行いの中に刻んでいくことだ。親を敬い、仲間を大切にし、見知らぬ者にも温かく接し、この国と先人たちへの誇りと感謝を胸に生きる。そういう一人ひとりの積み重ねが、国の魂を高みへと押し上げていく。
令和の若者よ、悩んでよい。迷ってよい。しかし流されてはならない。悩みも迷いも、魂が強くなるための試練である。嵐の夜に消えない炎を自らの胸に持て。その炎の名を、思いやりという。勇気という。日本人としての誇りという。その炎が燃え続ける限り、あなたの魂は必ず高みへと向かうことができる。宮司はそれを信じ、今日も祈りを捧げる。
