実事に宿る誠。平田篤胤に学ぶ大和の心

悠久の歴史を振り返ると、日本人の精神の根幹には、常に言葉を超えた「誠」が静かに息づいてきたことがわかる。理屈で語られる以前に、日々の暮らしの中で自然と体得され、受け継がれてきたもの。それこそが日本の精神の原風景である。

出羽の国秋田に生まれ、独学によって国学の奥へと分け入った平田篤胤の生涯は、その「誠」を生きた軌跡そのものであった。篤胤は本居宣長の没後にその学びに連なったが、直接の師弟関係という枠を超え、古道そのものに身を投じた人物である。学問を手段として用いながらも、目的は常に生の実感にあり、日本人の魂の拠り所である神道の核心を、言葉よりも姿勢によって示そうとした。

宮司は、篤胤が『入学問答』に記した「実事が有れば教へはいらず」という一言に、今なお色褪せぬ重みを見る。道とは、本来、書物や説教の中にあるのではなく、日々の営みそのものの中に備わっている。実体としての道、すなわち「実事」が確かに保たれているならば、仰々しい教えは不要である。逆に教えが声高に語られる時代とは、その実践が衰えている証でもある。

現代社会を見渡すと、言葉や理屈は溢れているが、手応えのある「実事」が置き去りにされてはいないだろうか。宮司は、古の人々が土を耕し、海を敬い、神々に感謝を捧げながら生きてきた、その無言の積み重ねこそが、最も尊い実事であったと考える。そこには説明も弁解もなく、ただ誠実な日常があった。理屈は実事から離れた時の補いに過ぎず、大和の心は常に沈黙の中で養われてきたのである。

篤胤が『霊能真柱』において説いた幽冥の世界観も、単なる宗教理論ではない。現世だけが全てではないという感覚、目に見えぬものへの畏れと敬いを、日本人の精神に改めて据え直そうとする試みであった。死後の安らぎを大国主命に委ねるという思想は、人が誰に見られていなくとも、自らを律し、誠を尽くして生きるための支柱となる。

この「幽かなるもの」への自覚が、人の背筋を正し、社会の底を静かに支えてきた。宮司は、国家の品格とは制度や言葉によって保たれるものではなく、人々の内にあるこの感覚の総体によって形づくられるものだと感じている。

篤胤は晩年、幕府からの譴責を受けながらも志を曲げることなく古道を求め続けた。その姿は、時代の潮流に迎合するのではなく、不変の価値を守り抜くことの厳しさと尊さを今に伝えている。知識を蓄えることよりも、神前で手を合わせる一瞬の静けさ、他者を思いやるさりげない振る舞い、祖国への深い慈しみ。そうした一つ一つの実事の積み重ねが、日本という国の土徳を形づくってきた。

宮司は、日本人が再び自らの足元を見つめ直し、言葉に頼らぬ強靭な精神を取り戻すことを願っている。実事が確かに息づくところでは、教えは声高に語られずとも自然に伝わる。そこにこそ、清々しい日本の真の姿が静かに立ち現れるのである。

平田篤胤について

平田篤胤(1776–1843)は、江戸後期を代表する国学者である。出羽国久保田、現在の秋田県に生まれ、若年期は決して恵まれた環境ではなかったが、強い向学心によって独学で学問を深めた人物である。

青年期に江戸へ出て本居宣長の著作に触れ、没後ではあるがその思想を師として仰ぎ、国学の道へと進んだ。篤胤の特徴は、文献研究にとどまらず、日本人の生き方そのものを問い直そうとした点にある。『霊能真柱』では幽冥の世界を論じ、『入学問答』では日常の中にこそ道があると説き、学問を生活と結びつけた。

その思想は幕府から危険視され、晩年には処罰も受けたが、志を変えることはなかった。平田篤胤は、言葉や理屈よりも誠実な生き方を重んじ、日本人の精神の根を見つめ続けた思想家であり、その影響は明治以降の神道思想や国家観にも大きな足跡を残している。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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