葉隠に生きる ― 保身ばかり考えるから、精神が萎縮する

令和という時代は、便利であるがゆえに、人の心を弱くする側面を持っている。安全であるがゆえに、覚悟を持たぬ生き方が肯定されやすい時代とも言える。波風を立てず、角を立てず、嫌われぬことを第一とし、失敗を極度に恐れる。その結果、人生の中心が「どう生きるか」ではなく、「どう守るか」にすり替わってしまう。
葉隠が語る世界は、決して乱暴さや無謀さを勧めるものではない。そこにあるのは、保身に心を奪われた瞬間、人の精神は縮み、働きは鈍り、志は朽ちていくという厳然たる人間理解である。沈香も焚かず、屁もひらず、可もなく不可もなくという生き方は、一見穏やかで賢明に映る。しかし、その生には火がない。燃え上がる瞬間も、貫こうとする芯もない。
人生は一度きりである。安全な範囲に留まり続けることが、本当に生きた証となるのか。宮司には、波乱に満ちていても、己の責任で選び、悩み、立ち上がり、打ち倒されながらも前へ進む人生の方が、はるかに人を鍛え、魂を澄ませるように思われる。
葉隠に記される武士の覚悟は、命を粗末にせよという教えではない。身を惜しむあまり、為すべきことを為さぬ生を戒めているのである。俸禄は己のものではなく、預かりものであるという考え方は、現代に置き換えれば、地位も財も名声も、すべて一時的に授かったものであるという自覚に通じる。そう心得たとき、人は初めて、損得を越えて動くことができる。
奉公の行き着く先が二つしかないという厳しい言葉は、現代人にとって過激に響くかもしれない。しかし、その本意は、結果ではなく、在り方にある。私欲や怠慢、人に害をなすことによって道を踏み外すことは許されないが、それ以外の理由で倒れるならば、それは恥ではない。むしろ、覚悟をもって生き切った証となる。
令和の社会は、優しさや配慮を尊ぶ。しかし、それが行き過ぎれば、決断を避け、責任を回避し、何も背負わぬ人間を量産する。葉隠が憂えた「女風になりたがる若者」とは、性別の問題ではない。闘うべき場面で闘わず、耐えるべき場面で耐えず、踏み出すべき一歩を踏み出さぬ心の姿勢を指している。
宮司が神前に立つたびに思うのは、神道が教える生の道は、静かでありながら、きわめて厳しいということである。逃げ道を探す生き方ではなく、引き受ける生き方を求める。与えられた役割を軽んじず、その場において全力を尽くす。その積み重ねが、人を内側から強くする。
守りに入った瞬間、人生は衰える。これは武士だけの言葉ではない。家庭においても、仕事においても、国においても同じである。恐れを基準に選択を重ねた先に、活力ある未来は生まれない。
葉隠に生きるとは、死を急ぐことではない。覚悟をもって今日を生きることである。己の立場を言い訳にせず、時代のせいにせず、静かに、しかし確かに前へ進む。その姿勢こそが、日本人の精神を磨き、次の世代へと受け渡す力となる。
令和の混沌の中で求められているのは、賢さよりも胆力であり、要領よりも誠である。保身を離れたところにこそ、人が人として生きる道がある。宮司は、葉隠の言葉を、過去の遺物としてではなく、今を生き抜くための鏡として、これからも静かに読み継いでいきたいと考えている。
沈香も焚かず屁もひらず
特によいところもないが、悪いところもなくて、平々凡々であることのたとえ
人生は一度だけしかない「小市民的」に生きるだけでいいのか?
波乱万丈でも「生きている」と実感できる人生の方がいいのではないか?
保身ばかり求めるな
守りに入った時、人生は駄目になる
権之丞殿へ話に、今時の若き者、女風になりたがるなり。
結構者、人愛の有る者、物を破らぬ人、柔なる人と云ふ様なるを、よき人と取りはやす時代になりたる故、矛手延びず、突つ切れたる事をならぬなり。
第一は身上を抱き留むる合点が強き故、大事とばかり思ひ、心縮まると見えたり。その方も我が知行にてなく、親の苦労して取り立てられたる物を、養子に来て崩し候てはならぬことと大事に思はるべきが、それは世情の風なり。
我等が所存は格別なり。奉公する時分、身上の事などは何とも思はざりしなり。素より主人のものなれば、大事がり惜しむべき様無き事なり。我等生世の中に、奉公方にて浪人切腹して見すれば本望至極なり。奉公人の打留めはこの二箇状に極りたるものなり。
その中きたな崩れは無念なり。おくれ、不当介(ふあてがひ)、私欲、人の害になる事などはあるまじき事なり。その外にては崩すを本望と思ふべし。かくの如く落ち着くと、その儘矛手延びてはたらかれ、勢ひ格別なり。
現代語訳
権之丞殿に話されたことである。昨今の若者は、女性的になってしまった。
性格がよく、愛想いい、角の立たない、もの柔らかな人などを、よい人と噂し合う時代になってしまったから、消極的で、思い切ったことが出来ない。
第一は、保身ばかり考えるから、精神が萎縮してしまう。お前も、自分で得た俸禄ではなく、親の苦労で得たものを、養子に来て駄目にしては申し訳ないと思うだろうが、それは世上通り一遍の考えである。
私の考えはまた別である。奉公の間は、己の身上など考えもしなかった。もともと俸禄は主人のものなれば、大事がり惜しむべきものではない。むしろ生きて浪人し切腹させられるようならば、却って望むところである。奉公人の終着点は、この二つに決まっている。
但し、つまらないことで家を崩すのは残念である。後れをとったり、行き届かなかったり、私欲で失敗したり、人に迷惑をかけたりすることがあってはならぬ。その外のことで崩れ去るのは本望と思え。こう決心すると気力充実し、溌剌として働けるものである。
