不遇の中に光る心

人生において、成功と失敗、栄光と不遇。これらは表裏一体である。だが、真の人格の価値は、成功の中にあるのではなく、不遇の中にこそ表れるのだ。宮司は、この真理を思うとき、一人の異邦の賢人を想う。
ヴォーヴナルグ。18世紀フランスの哲学者で、わずか32歳の若さで世を去った人物である。生涯、彼は富も名声も得ることなく、病と不遇の中で人生を終えた。だが、彼が遺した言葉は、今もなお、人間の心の最も深い真理を照らし続けている。
情深い人でなかったら、真に正しい人にはなれない。この言葉は、現代の日本人に最も必要な警告である。
今の時代、何が尊ばれているか。合理性、効率性、論理性。人間関係さえ、契約という冷徹な関係に還元されようとしている。だが、ヴォーヴナルグが言うように、情なき正しさは、真の正しさではない。知識と技術だけを磨いた人間は、最終的には、人間の心を傷つけ、社会を冷え込ませる者となるのだ。
春の始めの風情も、青年の徳の芽生えほどではない。この言葉の美しさを、宮司は何度思い返したことか。若き日に、自分の心の中に芽生える良心、同情心、正義感。これらは、自然界のどのような美しさよりも尊いのだ。そして、その芽を育てるのが、人生という長い時間なのである。
忍耐は希望を持つ技術である。この言葉は、ヴォーヴナルグ自身の人生そのものである。彼は、不遇の中にあって、決して絶望に身を委ねなかった。むしろ、その不遇の時間の中で、人間の本質について深く思索し、言葉を磨いた。
病床で、彼は何を思ったのか。富を得ることができない。名声を得ることができない。だが、自分の心を高めることはできる。自分の考えを深めることはできる。その時、彼は気づいたのだろう。真の豊かさとは、外部にあるのではなく、内部にあるのだということを。
日本の古い言葉に、禍を転じて福となす、という表現がある。ヴォーヴナルグの人生は、まさにこの言葉の実例である。不遇という禍を、精神の修養という福に変えたのだ。
利欲はいくらも富を作らない。利欲故に柔和な人間は始末が悪い。この警告は、現代の日本人にとって極めて重要である。金銭欲に駆られた人間は、富を得たとしても、その心は永遠に飢えたままである。一方、損得を超えた人間の心には、真の平静と満足が宿るのだ。
繁栄はいくらも心友を作らない。何にでも耐える心得のある人こそ、何でも敢えて為すことができる。この言葉は、武士道の精神にも通じるものがある。忍耐と勇敢さは、対立するのではなく、相補うものなのだ。忍耐があるから、初めて真の勇敢さが生まれ、真の行動が生まれるのである。
ヴォーヴナルグの同時代人であり、友人でもあったヴォルテールは、彼をこう評した。彼はこの上なく不運であったが、この上なく落ち着いた人であった、と。
不運でありながら、落ち着いている。この一見矛盾する二つの状態が両立する。それはどのようにして可能か。答えは、ヴォーヴナルグ自身の言葉の中にある。絶望は人の不幸と弱さをこの上もないものにする。逆に言えば、絶望に陥らず、希望を手放さない心の強さがあれば、不遇も、単なる不幸ではなく、精神を鍛える修行となるのだ。
曖昧は誤謬の住む国である。表現の明るさは、深い思想を美しくする。この言葉もまた、現代に深い意味を持つ。ことばを曖昧に使う者は、真実から目をそらそうとする。逆に、明確で清廉な言葉で、深い思想を表現することができる者は、真理に近い人間なのだ。
戦争は隷属ほど負担が重くない。隷属は終いにはそれを好ましいことに思ってしまうほど人間を低いものにする。この言葉の深さを、宮司は思う。外からの強制による不幸よりも、自分の心の中に渦巻く怠惰や無気力の方が、より人間の本質を蝕むのである。
宮司が、なぜヴォーヴナルグの人生と言葉に深く共鳴するのか。それは、彼が、形式的な地位や権力よりも、精神の高潔さを尊んだからである。32歳で死を迎えるまで、彼は決して妥協しなかった。決して、金銭や名声のために、自分の信念を曲げなかったのだ。
今の日本もまた、多くの不遇を抱えている。経済の停滞、社会の分断、精神の喪失。だが、この不遇の中にこそ、日本人が真に問い直すべきことがあるのだ。
富と権力とは何か。本当の幸福とは何か。人間の本当の価値とは何か。ヴォーヴナルグは、その32年の短い人生を通じて、この問いに答えを示した。真の豊かさは、心の中にある。真の力は、不遇の中で培われる。真の勇敢さは、絶望に抗う忍耐から生まれる。
宮司は思う。ヴォーヴナルグのような賢人は、この世に何人いるであろうか。そして、その賢人たちの遺言に、どれだけの日本人が耳を傾けるであろうか。
この記事を読むあなたも、今、人生の不遇の中にいるかもしれない。だが、その不遇は、決して無駄ではない。むしろ、その時間の中で、あなたの心を磨き、あなたの魂を高める機会なのだ。ヴォーヴナルグのように、逆境の中で、自分の精神を鍛え続けるのだ。
情深い人でなかったら、真に正しい人にはなれない。この言葉を胸に刻み、今日からまた、自分の心を磨く修行を続けるのだ。
