山高きが故に貴からずや

古来、日本の童たちが手習いの場で諳んじてきた書に、實語教がある。その冒頭に記されてあるのは、「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す」の一節である。山は、その高さによって尊いのではない。樹々が深く根を下ろし、谷に水を湛え、麓に人々の暮らしを育むからこそ、貴いのである。
されど、現代の日本はどうであろうか。人を測る物差しは、いつしか大きく歪んでしまったのではないか。
地位が高ければ尊いのか。資産が多ければ貴いのか。肩書を連ね、名刺の文字を太くすれば、それで人としての品格が備わるとでもいうのか。宮司は、近頃の世相を眺めるたびに、深い慨嘆を覚えるのである。
花を思えば、その理は分かりやすい。薔薇は気高く、牡丹は艶やかであり、カサブランカは清楚にして雅やか、胡蝶蘭は床の間に映える。されど、道の辺にひっそりと咲く菫、勿忘草の小さく澄んだ青、たんぽぽの黄が野に灯る愛らしさ。これらの花が、値の張る蘭に劣るとは、誰が言えようか。花の貴さは、値札の数字によって決まるものではない。人もまた、しかりである。
ところが、人は権力を握ると、いつしか驕り高ぶる。先生、先生と呼ばれているうちに、知らず知らずのうちに身が反り返り、声音は太く、目は人を見下すようになる。上にへつらい、下を侮る。そして最も恐ろしきは、下の者の嘆き、苦しみ、ため息。その声が、いつしか耳に届かなくなることである。
自分は、いつのまにか「上級の人間」にでもなったかのように錯覚する。
されど、それは錯覚に過ぎぬ。
宮司は思う。西郷南洲翁は、明治維新という天地ひっくり返るほどの大業を成し遂げながら、最期まで身に纏うものは粗末な木綿の単衣であった。「児孫の為に美田を買わず」翁が遺した詩の一節である。子孫に美しき田畑を残すよりも、子孫が自らの手で道を切り拓ける気概と志を残す。それこそが真の遺産であると、翁は信じておられた。如何に金を儲けたか、如何に高き山を登り詰めたか、如何に多くの財を遺したか。そのようなことは、人の生涯の真の値打ちとは、何の関わりもないのである。
問わるべきは、ただ一つ。
己は、日本のために何を為したか。
その問いの前に立つとき、地位も肩書も、財産も名声も、すべては薄き霞の如く消え失せる。残るのは、ただひとつ、国を想い、後の世を憂い、麓の民の声に耳を傾けてきたか否か。その一点である。山は樹有るを以て貴く、人は志有るを以て尊し。先人がこの道理を説き続けてきたのは、人が常にこの道理を忘れがちな存在だからに他ならぬ。
宮司もまた、麓の風に吹かれながら、ただひたむきに、神前に額ずく一人の宮司でありたい。それこそが、この国に生まれ、この国に育まれた身として、為すべき本分であろう。
