日本人とは何か。
宮司は、この問いを幾度となく自らに問いかけてきた。日本列島に生まれ、日本語を話し、日本の国籍を持っているだけで、日本人のすべてを言い表せるものではない。日本人を日本人たらしめているものは、血筋や戸籍だけではなく、祖先から受け継いできた心と生き方の中にある。
親を敬うこと。年長者を大切にすること。受けた恩を忘れないこと。自らの務めを果たし、世のため人のために働くこと。そして、自分が生まれ育った国を愛し、その国をより良い形で子孫へ残そうとすること。
宮司は、そこに日本人の精神の根があると思っている。
京都大学の教授を務めた哲学者、田中美知太郎先生の言葉として、親孝行と愛国心は、人間にとって崇高なものであり、教育によって育まれるという趣旨の言葉が伝えられている。
親孝行も、祖国を思う心も、人間が生まれながらに完成した形で持っているものではない。幼い頃から父母や祖父母の背中を見て、家庭で教えられ、日々の暮らしの中で少しずつ身につけていくものだ。
宮司が子供の頃、家庭は単に食事をし、眠るためだけの場所ではなかった。人として守るべき道を学ぶ、最初の道場であった。
朝には家族へ挨拶をする。食事をいただく時には、天地自然の恵みと、作ってくれた人に感謝する。履物を揃える。嘘をつかない。人に迷惑をかけない。年長者を敬う。弱い者を助ける。自分のことばかり考えず、家族や周囲の役に立つ。
そうした教えは、難しい学問として語られたのではない。父母の日々の振る舞いと、時には優しく、時には厳しい言葉によって、子供の心へ刻まれていった。
家庭には、学校の成績だけでは測ることのできない教育があったのである。
「躾」という字は、身を美しくすると書く。外見を飾るという意味ではない。日々の振る舞いを整え、心を正し、人として美しく生きられるように導くことだ。
挨拶ができる。約束を守る。感謝を言葉にする。間違った時には素直に謝る。人が見ていないところでも、恥ずかしくない振る舞いをする。
これらは、社会へ出てから急に身につくものではない。幼い頃から繰り返し教えられ、身につけて初めて、その人の人格となる。
かつての日本では、母親が家庭教育の大切な部分を担ってきた。これは、女性を家庭の中だけに閉じ込めるという話ではない。母が子供の人格形成に果たしてきた役割の尊さを、正当に認めるということだ。
子供が初めて聞く言葉も、初めて知る優しさも、初めて学ぶ善悪も、多くの場合は家庭の中にある。母親の愛情、父親の責任、祖父母の知恵、それぞれが重なり合って、一人の人間を育ててきた。
家庭教育は、誰にでもできる簡単な仕事ではない。一人の人間の根を育て、その子が将来どのような家庭を築き、どのような社会をつくるのかにまで関わる、極めて尊い務めである。
戦後、日本の社会制度は大きく変わった。日本国憲法の制定や民法の改正を通じて、家族制度や男女の法的な関係も改められた。そこには個人の尊厳や権利を重んじる意義があった一方、家族や地域の結びつきまで古いものとして軽んじる風潮が広がったことも否定できない。
宮司は、個人を尊重することと、家族を大切にすることは、決して対立するものではないと思っている。
一人ひとりが尊い存在だからこそ、互いを支え合わなければならない。自由が大切だからこそ、自分の自由だけではなく、家族や社会に対する責任も引き受けなければならない。
権利だけを教え、義務を教えない。自由だけを教え、節度を教えない。個性だけを尊び、共同体への責任を語らない。それでは、社会は根を失った木のようになってしまう。
人間は一人では生きられない。父母から命をいただき、家族に育てられ、地域に守られ、祖国の歴史と文化の中で生きている。
自分の力だけで大きくなった人間など、一人もいない。
その当たり前のことを忘れた時、人は傲慢になる。親への感謝を失い、先人への敬意を失い、国への責任を失う。そして最後には、自分さえよければよいという生き方へ流れていく。
親孝行とは、親の言うことに何でも従うことではない。自分に命を与え、育ててくれた恩を忘れず、その恩に報いる生き方をすることだ。
立派な人間となり、世の中の役に立つ。自分の子供を大切に育てる。家の名を汚さず、祖先に恥じない毎日を送る。それもまた親孝行である。
祖国を愛することも同じだ。
愛国心とは、他国を憎むことではない。自分の国の歴史、文化、自然、伝統を大切にし、この国をより良いものとして次の世代へ手渡そうとする心である。
自分の家を大切にする人が、隣の家を壊そうとは思わない。自分の家族を愛する人ほど、他人の家族の悲しみも理解できる。本当の愛国心は、排他的な憎悪ではなく、自らの国に対する責任と感謝から生まれる。
日本列島では、非常に古い時代から人々が自然と向き合い、暮らしを営んできた。青森県の大平山元遺跡からは、およそ一万五千年前に遡る可能性のある土器片が出土しており、日本列島における土器文化の古さを示す重要な資料となっている。
縄文の人々は、山や海、川の恵みをいただきながら、長い年月を生きた。自然を一方的に征服するのではなく、その中に神聖なものを感じ、共に生きる道を探してきた。
この感覚は、今の日本人の心にも残っている。
山を仰いで頭を下げる。大きな岩や古い木に神さまの気配を感じる。春の桜を喜び、秋の実りに感謝し、亡き人の御霊を丁重にお祀りする。
日本人は、目に見えるものだけを尊んできたのではない。目に見えない命のつながり、祖先の祈り、土地に宿る記憶を大切にしてきた民族である。
宮司は、日本人の古さや尊さを語る時、他の民族より優れていると威張る必要はないと思っている。
本当に歴史のある民族ならば、その歴史に相応しい謙虚さを持たなければならない。長く続いてきた国であるならば、長く続いてきた理由を学び、その責任を負わなければならない。
古いというだけで尊いのではない。古くから受け継いできたものを、時代に合わせながら守り、次へつないできた努力が尊いのである。
神話、皇室、祭祀、家族、言葉、礼節、武士道、ものづくりの心。それらは、ある日突然できたものではない。数え切れないほどの祖先が、苦難に耐え、守り続けてきた結果として、今の私たちに託されている。
それにもかかわらず、日本人は自国の歴史や文化を語ることに、どこか遠慮するようになった。
日本を褒めれば偏っていると言われ、国を愛すると語れば危険な思想であるかのように見られる。自国の歴史に誇りを持つことより、過ちだけを数え上げることが知識人の証しであるかのような風潮も残っている。
もちろん、歴史の過ちから目を背けてはならない。どの国にも光と影があり、日本も例外ではない。しかし、反省することと、自国を卑しめることは違う。
過ちを正しく学びながら、先人が成し遂げたことにも敬意を払う。失敗も功績も含めて、自分たちの歴史として引き受ける。それが成熟した歴史観である。
根拠のない話を並べて日本を持ち上げることも、日本のすべてを否定することも、宮司は正しいとは思わない。
誇りは、事実の上に築かなければならない。
日本の歴史を本当に大切にするならば、都合のよい話だけを信じるのではなく、史料を学び、遺跡を調べ、神話の意味を読み、自分の頭で考えることだ。
外国の著名人が日本を称賛したかどうかによって、日本の価値が決まるのではない。日本の価値は、日本人自身が歴史を学び、文化を守り、日々の生き方によって証明するものだ。
アインシュタインは、1922年の訪日時の日記に、日本人の簡素さや品位、自然と人間との調和について好意的な印象を記している。しかし「世界の盟主は日本でなければならない」とする有名な文章については、本人が伊勢神宮で記帳したものと確認できる確かな一次資料が見当たらない。日本を愛するからこそ、真偽の確かでない言葉に頼るべきではない。
外国人の称賛を借りなくとも、日本には語るべきものが十分にある。
二千年を超えて続く皇室。四季と共に営まれてきた祭り。自然に感謝する神道の心。災害のたびに助け合ってきた国民。名もなき人々が守ってきた郷土。細部にまで心を配るものづくり。約束を守り、他人に迷惑をかけまいとする日常の倫理。
これらは、世界に誇るための飾りではない。私たち自身が守り、実践すべき日本人の道である。
グローバル化が進み、国境を越えて人や物、情報が行き交うこと自体を否定する必要はない。外国から学ぶべきものは学び、互いに協力すればよい。
しかし、世界と交わることと、自分を失うことは違う。
根のない木は、大きく枝を広げることができない。自国の歴史も文化も知らず、ただ外国の価値観に合わせるだけでは、真の国際人にはなれない。
自分が何者であるかを知っている者こそ、他者の違いを尊重できる。自国を大切にする者こそ、他国が自国を大切にする心も理解できる。
日本人には、日本人としての根が必要である。
その根を育てる場所は、まず家庭だ。
親が祖先を敬えば、子供も祖先を敬う。親が国を悪く言うばかりであれば、子供も国に希望を持てなくなる。親が神仏に手を合わせ、食べ物に感謝し、人との約束を守れば、子供は言葉で教えられなくとも、その心を学んでいく。
教育とは、知識を詰め込むことだけではない。
何のために生きるのか。誰のために働くのか。受けた命をどのように使うのか。自分が死んだ後、何を残すのか。
そうした問いを子供の心に植えることこそ、人間教育である。
宮司は、日本を立て直す道は、遠い場所にあるのではないと思っている。
家庭で親子が挨拶を交わすこと。食卓を囲むこと。祖先の墓に手を合わせること。地域の祭りに参加すること。子供に神話と郷土の歴史を語ること。国旗を敬い、国歌を大切にすること。困っている人を助け、受けた恩を返すこと。
一つひとつは小さく見える。しかし、国は制度だけで成り立つものではない。国民一人ひとりの心によって成り立っている。
家庭が整えば、人が整う。人が整えば、社会が整う。社会が整えば、国が立つ。
日本人とは、祖先から受け継いだ命に感謝し、家族を大切にし、世のため人のために尽くし、祖国を次の世代へ守り伝えようとする者である。
日本人とは、権利だけを求めるのではなく、自らの務めを果たす者である。
日本人とは、力を誇るのではなく、礼節を重んじ、弱い者に手を差し伸べる者である。
日本人とは、神々と祖先の御前に恥じぬよう、誠をもって生きようとする者である。
民族の誇りは、大声で叫ぶものではない。日々の振る舞いの中で示すものだ。
親を大切にする。子供を正しく育てる。祖先を敬う。郷土を守る。国の未来に責任を持つ。
その積み重ねこそ、日本人の魂である。
宮司は、今を生きる私たちが、この魂をもう一度目覚めさせなければならないと思っている。
日本人よ、日本人であることを恐れるな。
祖国を愛することを恥じるな。
先人から受け継いだ尊いものを学び、守り、子や孫へ堂々と手渡していこう。
その時、日本は再び、自らの足で立つ国となるのである。