国家と民族にとって、最も大切なものの一つが言葉である。
国土があっても、そこに暮らす人々が自らの言葉を失えば、祖先の記憶も、歴史も、祈りも、次第に薄れていく。言葉は、単なる意思伝達の道具ではない。その民族が何を尊び、何を美しいと感じ、どのように人と向き合ってきたのかを映し出す、心の器なのである。
宮司は、日本語ほど日本人の歴史、伝統、文化、信仰、生き方と深く結びついた言葉はないと思っている。
私たちが毎日、何げなく使っている日本語。その一音一音には、祖先から受け継いできた日本人の心が宿っている。
日本語の根幹を成す五十音は、「あ・い・う・え・お」という五つの母音を中心として、整然と組み立てられている。か行、さ行、た行、な行と続く一つひとつの音には、必ず母音が伴う。五十音表を眺めると、そこには不思議なほど美しい秩序がある。
この五十音が、いつ、誰によって、どのように形づくられたのか。そのすべては明らかではない。しかし宮司は、この簡潔にして整然たる音の並びに、日本人の物事を調え、和を求める心が表れているように思う。
大和言葉の響きは、明るく、柔らかく、澄んでいる。
「あさ」「ひかり」「こころ」「いのち」「みず」「やま」「かわ」「そら」。
声に出してみると、どの言葉にも自然な響きがあり、言葉そのものに温もりがある。母音を中心とする日本語は、言葉の終わりが穏やかに開かれ、耳に柔らかく届く。それは、日本の山河を流れる水の音、木々を渡る風の音、鳥のさえずりにも通じる響きではなかろうか。
日本人は、自然の音をただの雑音として聞いてきたのではない。
風の声を聞き、川のせせらぎに心を澄ませ、虫の音に季節の移ろいを感じてきた。自然の中に神々の御心を感じ、その気配を言葉に表してきたのである。日本語の美しさは、日本人が自然と共に生き、自然を畏れ、感謝してきた歴史から生まれたものだと宮司は思う。
古来、日本人は言葉に霊妙な力が宿ると考え、それを「言霊」と呼んだ。
よい言葉は人を励まし、悪い言葉は人の心を傷つける。祈りの言葉は心を清め、感謝の言葉は人と人との縁を結ぶ。言葉は一度口から出れば、目には見えなくとも相手の心に残り続ける。
神社の祭典で奏上する祝詞も、ただ文章を読み上げているのではない。清らかな言葉をもって神々に願いを申し上げ、感謝を捧げる。その一音一音に心を込めるからこそ、祈りとなるのである。
宮司は、言葉とは心の姿そのものだと思っている。
心が荒れれば言葉も荒れる。心に感謝があれば、自然と「ありがとう」という言葉が出る。相手を敬う心があれば、言葉遣いも丁寧になる。どれほど立派なことを語っても、言葉に誠がなければ、人の胸には届かない。
日本語には、一人称だけでも「私」「わたくし」「僕」「俺」「われ」「それがし」「拙者」など、多くの言い方がある。自分と相手との関係、立場、その場の空気によって言葉を使い分ける。これは単に語彙が多いというだけではない。
日本人が、自分だけを見て話しているのではなく、常に相手との間柄を考えて言葉を選んできた証しである。
とりわけ日本語には、尊敬語、謙譲語、丁寧語が豊かに備わっている。
相手を敬い、自分を慎み、場を乱さぬように言葉を選ぶ。「お越しになる」「拝見する」「いただく」「申し上げる」という言葉には、人を大切にする心が込められている。
自分を大きく見せ、相手を言い負かすことが強さなのではない。自らを抑え、相手を立て、互いが気持ちよく過ごせるよう心を配る。そこに日本人の慎みと礼節がある。
宮司は、この敬語の中にこそ、日本精神の美しい姿が表れていると思う。
日本人が大切にしてきた「和」とは、誰もが同じ考えになることではない。それぞれの違いを認めながら、相手を尊び、一つの場を調えていくことである。その和の心は、私たちが使う日々の言葉の中にも息づいている。
「おかげさま」
「もったいない」
「お互いさま」
「いただきます」
「ごちそうさま」
これらの言葉を、外国語にそのまま置き換えることは容易ではない。
「おかげさま」には、自分一人の力で生きているのではないという感謝がある。「もったいない」には、物や生命を粗末にせず、その背後にある働きや恵みを敬う心がある。「いただきます」には、食材となった生命と、食事を整えてくださったすべての人への祈りがある。
わずかな言葉の中に、日本人の信仰と道徳と生活の智慧が込められているのである。
また、日本語が生み出した和歌や俳句は、極めて少ない言葉によって、広大な情景と深い心情を表す。
五七五、あるいは五七五七七という短い言葉の中に、季節の移ろい、人を恋うる心、故郷への思い、人生の無常までも詠み込む。すべてを説明せず、読む者の心に余韻を残す。
そこには、語らぬものを感じ取る日本人の感性がある。
何もかも言葉にして説明しなければ理解できないのではない。沈黙の中にある思いを察し、行間に込められた心を受け取る。これもまた、日本人が長い歴史の中で培ってきた精神文化である。
しかし宮司は、今、日本語が少しずつ粗末に扱われていることを憂えている。
人を傷つける言葉が平然と飛び交い、短く強い言葉だけが人目を引く。相手を敬う言葉よりも、嘲りや罵りの言葉が広がる。意味も確かめずに外来語を並べ、日本語で十分に表せることまで外国の言葉に置き換えてしまう。
新しい言葉を受け入れることが悪いのではない。日本語は古くから、漢字を取り入れ、外国の文化を受け入れながら、それを日本人の心に合う形へと整えてきた。大切なのは、新しいものを取り入れるために、自らの言葉を捨てないことである。
日本語を失うことは、日本人の心を失うことにつながる。
祖父母の語った昔話も、神話も、和歌も、先人の教えも、日本語によって受け継がれてきた。私たちは言葉を通して、祖先の心と出会っているのである。
宮司は思う。
美しい日本を守るためには、まず美しい日本語を守らなければならない。正しい言葉を使うということだけではない。人を敬う言葉、感謝を伝える言葉、勇気を与える言葉、国を愛する言葉を、日々の生活の中で大切にすることである。
子供たちには、豊かな日本語を伝えなければならない。
「ありがとう」と言える心。
「ごめんなさい」と頭を下げる心。
「おかげさま」と感謝する心。
「いただきます」と生命を敬う心。
そうした言葉を教えることは、日本人としての生き方を教えることでもある。
言葉は国をつくり、民族をつくり、人の心をつくる。
日本語は、祖先から私たちに託された尊い財産である。その音、その文字、その響き、その言葉の奥に宿る心を、次の世代へ伝えていかなければならない。
宮司は、日本語を大切にすることが、日本を大切にすることだと信じている。
美しい言葉を語れば、心も美しくなる。
人を敬う言葉を使えば、世の中に和が生まれる。
感謝の言葉を忘れなければ、人と人との縁は深くなる。
日本語には、日本人の魂が宿っている。
この尊い言葉を守り、磨き、誇りをもって後世へ伝えていくこと。それが今を生きる私たちの務めである。
言葉は国をつくり、民族をつくり、人の心をつくる。
日本語は、祖先から私たちに託された尊い財産である。その音、その文字、その響き、その奥に宿る心を、次の世代へ伝えていかなければならない。
宮司は、日本語を大切にすることが、日本を大切にすることだと信じている。
美しい言葉を使えば、心もまた美しく整っていく。人を敬う言葉があれば、世の中に和が生まれる。感謝の言葉を忘れなければ、人と人との縁は深くなる。
日本語には、日本人の歴史と祈り、そして魂が宿っている。このかけがえのない言葉を守り、磨き、誇りをもって後世へ伝えていくこと。それが、今を生きる私たちの務めである。