人間の実力には、世間が思うほど大きな差はない。同じ仕事に長く携わり、真面目に努力を重ねていれば、知識や技術には多少の違いがあっても、十倍、百倍という差がつくものではない。
ところが、人間の魅力となると話は違う。なぜか人が集まる者がいる。話をした後に心が明るくなり、別れた後にも、もう一度会いたいと思わせる者がいる。その一方で、どれほど学歴が高く、能力があり、立派な肩書きを持っていても、二度と会いたくないと思われる者もいる。
この違いは、どこから生まれるのか。
宮司は、人間の魅力とは、相手の心をどれだけ大切にできるかにあると思う。自分の知識を見せつけることでも、自分の功績を語ることでもない。相手の話に耳を傾け、その苦しみを察し、その喜びを共に喜ぶこと。相手を軽んじず、一人の人間として誠実に向き合うこと。その積み重ねが、人の魅力となって表れるのである。
人は、話の内容だけを覚えているのではない。その人と一緒にいたとき、自分がどのような気持ちになったかを覚えている。勇気をもらったのか。安心したのか。自分も頑張ろうと思えたのか。それとも、見下されたように感じたのか。人の心には、言葉以上に、その人がまとっている心の温度が残る。
魅力のある人間は、相手から何かを奪おうとしない。評価を奪わず、手柄を奪わず、話の主役さえ奪わない。むしろ、自分と出会った人が少しでも元気になり、自信を持ち、前を向いて歩けるようにと願っている。その無私の心が、言葉や表情、立ち居振る舞いに自然と現れるのである。
反対に、常に自分の利益ばかりを考えている者は、どれほど巧みに振る舞っても、やがて見抜かれる。人脈を損得で選び、立場の強い者には媚び、弱い者には横柄になる。そのような人間からは、知識を得ることはあっても、心を預けることはできない。
日本人は古来、能力だけではなく、人柄を重んじてきた。「あの人なら任せられる」「あの人のためなら力を貸したい」という信頼を、何より大切にしてきたのである。仕事も政治も地域も、最後に動かすのは人間である。そして、人を動かすものは、命令や理屈だけではない。その人のために動きたいと思わせる、人間の魅力である。
では、魅力は生まれつきのものなのか。宮司は、そうではないと思う。
魅力は、日々の修養によって育てることができる。約束を守る。感謝を言葉にする。人の悪口を慎む。自分の非を認める。困っている者に手を差し伸べる。誰も見ていないところでも誠実に振る舞う。こうした小さな行いが、その人の顔をつくり、声をつくり、姿をつくる。
人間の顔は、歳月とともに、その人の心を映す鏡となる。怒りや不満ばかりを抱いて生きれば、その心は顔に刻まれる。感謝と慈しみを忘れずに生きれば、穏やかさと温かさがにじみ出る。魅力とは、取り繕った愛想ではない。その人が何を考え、どのように生きてきたかという、人生そのものなのである。
これからの時代、知識や技術だけで人と差をつけることは、ますます難しくなる。機械や人工知能が多くの仕事を担うようになれば、最後に人間へ求められるものは、「この人と一緒に働きたい」「この人から買いたい」「この人に任せたい」と思わせる力になる。
すなわち、人間力である。
成功とは、他人を押しのけて高い場所へ登ることではない。自分と出会った人から、「あなたに会えてよかった」「また会いたい」と思ってもらえる人生を築くこと。それこそが、人間としての本当の成功ではないだろうか。
宮司もまた、日々自らに問い続けている。
今日出会った人の心を、少しでも明るくできただろうか。自分と別れた後、その人は、もう一度会いたいと思ってくれるだろうか。
人間の値打ちは、肩書きでは決まらない。別れた後に残る、心の余韻によって決まるのである。