高杉晋作ー雷神のごとき風雲児を今こそー

宮司は、心の底から思っている。いま日本は、静かに滅びへと歩みを進めているのではないか。中国の脅威が目前に迫っているのに、平和と繁栄を当然のように信じ込んでいる人々は、その足元に忍び寄る危機に気づこうとしない。我が国が再び気概を取り戻すためには、雷神のごとく現れ、稲妻のように時代を切り裂く人物の登場が必要だと、宮司は考えている。
その理想こそが高杉晋作である。
宮司は山口県の生まれである。心から敬愛する人物は、吉田松陰であり、その次に高杉晋作がある。晋作は幕末という激動の時代に、疾風のごとく登場し、怒涛の勢いで駆け抜けた。伊藤博文が碑文に刻んだ言葉「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として、敢えて正視するものなし」に彼の人物像が凝縮されている。
天保十年八月、萩に生まれた高杉晋作は、毛利家に仕えてきた家系に育ち、武士の誇りを胸に成長した。八歳で寺子屋に入門し、やがて藩校明倫館、さらに松下村塾へと進む。松陰との出会いによって、それまでの表面的な学問に飽き足らなかった晋作は、真の学びを知った。松陰の教育は、知識の詰め込みではなく、実践を通じて人格を鍛えるものであった。晋作はこの学びに心から魅了されていった。
晋作は、ただの理屈屋ではなかった。知識を実行に移す覚悟を持った行動人である。国禁を犯してでも黒船に乗り込み、異国の文明を自分の目で見たいという願望は、当時としては無謀とされながらも、真の志の現れであった。
師である松陰が捕らえられたとき、晋作は江戸の牢を何度も訪ねては、命や志について真剣な対話を重ねた。松陰の死後は、その遺体を自らの手で改葬した。しかも、将軍しか通行を許されない橋を堂々と渡り、「天勅により、師を若林に運ぶ者なり。不浄役人ども、下がれ」と言い放ち、止めようとする役人たちを一喝した。この一件に、晋作の覚悟と誇りがはっきりと表れている。
晋作は、情に厚い一面も持っていた。三味線を手にし、都々逸を口ずさむ姿は、ただの志士ではなく、粋な芸人のようでもある。「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」という一首は、京都で遊んでいた折に即興で詠んだもので、晋作らしい洒脱と艶が感じられる。剣と学問、理想と自由、死の覚悟と生の華やかさ、それらすべてを併せ持っていたのが晋作という人物だった。
「苦しい」という言葉を口にすることを自らに禁じ、「先が短ければ短いなりに面白く生きたい」と語る。花火のように、一瞬で空に咲き誇り、潔く消えていく。そんな人生観こそ、晋作そのものである。
晋作が創設した奇兵隊は、身分にとらわれない画期的な部隊であり、幕末維新の流れを加速させる原動力となった。彼は敵の多さを恐れず、本当に恐れるべきは、民の心の弱さであると見抜いていた。「人は人、吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ、世の浮沈」という言葉は、自分を見失わず、時代の本質を捉えた彼の精神の証である。
高杉晋作は、行動を最優先にした。「戦いは一日早ければ、一日の利益がある。まず飛び出すことだ。思案はそれからでいい」と語ったその姿勢が、時代に風穴を開けた。
宮司は、いまの日本にこそ、こうした人物の再来を強く願っている。名も命も惜しまず、信じた道に自らを投げ出す若者よ、現れてほしい。空気を読み、流れに従うだけの大人たちに囲まれて、心まで眠ってしまった今の時代に、雷鳴のごとき声で喝を入れる存在が求められている。
我が国は、そうした風雲児の登場を待ち望んでいる。立ち上がれ、高杉晋作の魂を継ぐ者よ。