智・情・意。幕末三舟が令和に問いかける、日本人の魂の形

国家が大きな転換期を迎えるとき、歴史はいつも、時代の要請に応える人物を生み出してきた。宮司はこのことを、幕末の動乱を眺めるたびに感じずにはいられない。徳川二百六十年の礎が崩れ、西洋列強が迫る中で、江戸の町を戦火から救い、百万の民の命を守ったのは、策ではなく、人の徳であった。その中心にいたのが、後に「幕末三舟」と呼ばれた三人の幕臣――勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟である。三人の名にはいずれも「舟」の字が入る。舟とは、岸と岸をつなぐもの。時代と時代を渡すもの。幕末という激流の中でこの三人は、徳川の旧世界と明治の新世界とをつなぐ舟であった。

慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れ、官軍が江戸へ迫る中、もし幕府が徹底抗戦に転じていれば、百万の市民が戦火に飲み込まれていた。その惨劇を未然に防いだ江戸城無血開城という奇跡の陰に、三舟それぞれの志が重なり合っていた。勝海舟が交渉の場を開き、高橋泥舟が最良の使者を生み出し、山岡鉄舟が西郷隆盛の胸を打った。一人の英雄が救ったのではない。徳の異なる三人の人間が、それぞれの持ち場で誠を尽くしたことが、百万の命を救ったのである。宮司はこれを「徳の連鎖」と呼ぶ。

勝海舟は「智の人」と呼ばれる。

文政六年、貧しい旗本の家に育ちながら、独学で語学を修め、蘭学を究めた。蘭医から「日蘭大辞典」全五十八巻を一年間借り受け、一年半をかけて二冊分を書き写し、一冊を売って借り賃と生活費に充てたという逸話は、その非凡な智略と不屈の意地を伝えている。海舟の手記にある「困難ここに到って、また感激を生ず」という言葉を、宮司は深く愛する。逆境を嘆くのではなく、逆境の中にこそ感激の種を見出す。これが海舟の真骨頂であった。しかし海舟は、深い至誠や品性という点において、後の二人には一歩及ばない、と宮司は見ている。奇才ではあるが、所詮は「小人の大人物」である。智は人を動かすが、魂を揺さぶるのは、また別の徳が要る。

高橋泥舟は「情の人」と呼ばれる。

天保六年生まれの泥舟は、槍の名人として名高かった兄・山岡静山のもとで修行し、「海内無双」と評されるほどの槍術の達人となった。しかしその敬愛する兄が二十七歳で夭折すると、泥舟は後を追って切腹しようとした。宮司はこの話を、情けないとは思わない。むしろ、真に人を愛し師を慕う者の、正直な魂の表れだと感じる。本当に修行した人間は、感情のない木偶にはならない。喜びは人一倍喜び、悲しみには人一倍悲しむ。泥舟には、忘れ難い歌がある。

欲深き 人の心と 降る雪は つもるにつれて 道をうしなふ

欲望は雪のように積もり、積もるほどに人は道を失う。この一首に、泥舟の人間観が凝縮されている。官軍との交渉使者として白羽の矢を立てられながら、主君・慶喜の側を片時も離せないとして固辞し、代わりに義弟の山岡鉄舟を推挙した泥舟の姿に、宮司は心を震わせる。維新後、明治新政府から高給での任官を繰り返し誘われても、泥舟は頑として断り続けた。主君が世に出られない以上、自分が出世栄達を求めることはできない、という一筋の誠が、泥舟の生涯を貫く背骨であった。

山岡鉄舟は「意の人」と呼ばれる。

天保七年生まれの鉄舟は、剣を九歳から、禅を十三歳から修め、剣禅一致の境地に達して「無刀流」を創始した。宮内庁に仕えながら、東京から三島の龍澤寺まで三十里の道のりを、休日ごとに草鞋がけで歩き続けて参禅したこと三年。現代のスポーツクラブで汗を流すのとは、その修行の動機が根本から違う。己の魂を砥石で磨くための行為であった。箱根で富士山を仰いで豁然と悟り、詠んだ歌がある。

晴れてよし 曇りてもよし富士の山 もとの姿は かはらざりけり

晴れても曇っても、富士の本質は変わらない。時代がいかに荒れようとも、己の本質を揺らがせてはならない。この歌に、鉄舟の覚悟のすべてが宿っている。鉄舟は死の直前にも、浴室で身を清め、白衣に着替え、座禅を組んだまま息を引き取った。宮司は、この最期の姿に、修行が人の一生をどこまで高めうるかを見る。江戸城開城の大交渉において、鉄舟が西郷隆盛の胸を打ったのは、弁舌ではなかった。その全身から漂う、死をも恐れぬ不動の誠の気配であった、と宮司は確信している。

智・情・意。この三つの徳が一つになったとき、江戸は救われた。知恵だけでは人の心は動かない。情だけでは方向を誤る。意志だけでは孤立する。三者の徳が補い合い、引き出し合い、一つの奇跡を生んだ。これは、英雄譚ではない。人間の徳の可能性の話である。令和の日本に生きる私たちは、今また、大きな時代の転換点に立っている。少子化、人口減少、国際秩序の揺らぎ、若者の志の喪失。幕末の激流とは形こそ違えど、この国のあり方が根底から問われている点において、変わりはない。

宮司は問う。令和の日本に、海舟のような智はあるか。泥舟のような誠はあるか。鉄舟のような意志はあるか。三舟が示したのは、才能の話ではない。どれほど困難な時代であっても、己の持つ徳を最大限に尽くすということである。智ある者は知恵を、情ある者は誠を、意ある者は意志を。それぞれが己の持ち場で尽くすとき、国は必ず道を開く。「欲深き人の心と降る雪はつもるにつれて道をうしなふ」――泥舟のこの歌が、令和の今も胸に刺さる。欲と怠惰が積もり、日本人が本来の道を見失いつつあるとすれば、今こそ三舟の生き方に立ち返る時である。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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