自由とは、己に由ること。本当の自由を生きるための一本の道

自由に生きたい。その言葉ほど、多くの人が口にし、しかし多くの人が誤解して生きている言葉はないかもしれない。宮司はこのことを、長い神職の歳月の中で何度も問い直してきた。「自由」という言葉は、もともと仏教の言葉である。自らに由る、と書いて「自由」。その語源に立ち返れば、自由とは好き勝手に振る舞うことではなく、自分自身を真の拠り所とし、己の内から湧き出る確かな軸に従って生きることを指す。それは、怠惰に流れることと、正反対の道である。
現代の日本では、「自由」という言葉があまりにも軽く使われていると宮司は感じる。縛られたくない、誰にも指図されたくない、自分のやりたいことだけをやって生きたい。その欲求を「自由」と呼んでいる人が、どれほど多いか。しかし宮司に言わせれば、それは自由ではなく、煩悩に引きずられた「放縦」に過ぎない。風に飛ばされる木の葉は、自由に見えて、自分の意志を持たない。流れに押される小舟は、どこへでも行けるようで、どこへも辿り着けない。己という舵を持たない者が、どれだけ束縛を嫌っても、それは自由への道ではなく、漂流への道である。
自分を頼りにするとは、どういうことか。
それは、まず自分が信頼に値する人間に、自らを作り上げることである。肉体を鍛え、精神を磨き、欲望に流されぬ心の地盤を固める。朝に怠らず、夜に省みる。誰かに褒められるためでも、誰かに見られるためでもなく、ただ自分の魂が恥じぬために、日々の精進を重ねる。宮司は若い頃から、この積み重ねが人の器を決めると信じてきた。器の大きさとは、才能の話ではない。どれだけ己を律し、己を磨いたかという、地道な日常の集積である。煩悩に流されて怠惰に生きた人間が、いざという選択の岐路に立たされたとき、正しい道を選べるはずがない。
人様に尽くす、ということも、この「自由」の道の一部である。自分のことだけを考えて生きる人間は、永遠に自分という殻の中に閉じ込められている。他者のために力を使い、他者の喜びを我が喜びとし、自分よりも大きな何かのために己を捧げるとき、不思議なことに、人間は本当の意味で自由になる。宮司の先達の言葉に、こんな教えがある。「人に奉仕するほど、自分が自由になる」と。これは逆説のようでいて、深い真実である。己のことばかり考える人間は、欲と不安と比較の中に縛られ続ける。人のために生きる人間は、その縛りから解き放たれる。
欲深き 人の心と 降る雪は つもるにつれて 道をうしなふ
高橋泥舟が遺したこの一首が、宮司の胸にいつも響いている。欲望は雪のように静かに積もる。気がつけば、道が見えなくなっている。煩悩とはそういうものである。誰も最初から堕落しようとして堕落するのではない。小さな怠惰の積み重ねが、気づかぬうちに道を覆う。だからこそ、日々の精進が要る。一日を丁寧に生き、肉体を整え、心を澄ませ、欲に引きずられそうになる自分をその都度立て直す。この営みを重ねた先に初めて、「頼れる自分」が姿を現す。自分という柱が立ったとき、人は初めて、本当の意味で自由に立てる。
令和の日本で、自由を叫ぶ声は大きい。しかし、真に自由に生きている人がどれほどいるかを、宮司は静かに問い続けている。自由とは権利として与えられるものではなく、修養によって内から培われるものである。肉体を磨き、心を整え、煩悩から離れ、人様に尽くす。その一本の道を黙々と歩んだ者にのみ、選択を誤らない自分が宿る。何者にも流されず、しかし柔らかく、凛として、しかし温かく。そういう人間が一人増えるたびに、この国は少しずつ、本来の姿を取り戻してゆく。自由の語源に立ち返ること。それが、令和を生きる日本人への、宮司の変わらぬ願いである。
ここで宮司は、一つの問いを立てずにはいられない。現代の日本で「自由」を最も声高に語るのは、しばしば左派の思想家や、マルクスの系譜を引く人々である。しかし宮司の目には、その語られる「自由」の姿が、どうしても本物に見えない。マルクスが描いた自由とは何か。資本家の搾取から解放され、国家が平等を保障し、社会が個人を守る。一見、人間を縛るものをすべて取り除くように見える。しかし宮司はそこに、根本的な倒錯を見る。己を磨かずして自由を求める思想は、結局、自分の外に救いを求めることと同義である。国家に守られ、制度に依存し、誰かが不平等を正してくれるのを待つ。それは自由への道ではなく、依存への道である。
「自由は与えられるものだ」という発想の中に、すでに奴隷の精神が宿っている。
マルクスや左派思想が説く自由とは、結局、奴隷的精神を作り上げることにしかならない。宮司はこう断じる。なぜか。それは、その思想が人間に「己を鍛えよ」とは決して言わないからである。「社会が悪い」「制度が悪い」「支配者が悪い」。怒りの矛先をつねに外へ向け、己の内を問わない。肉体を磨かず、心を整えず、煩悩を自ら断とうともせず、ただ外からの解放を待ち望む人間が、どれほど「自由」を叫んでも、その魂はいつまでも何かに縛られたままである。怒りに縛られ、妬みに縛られ、依存に縛られている。鎖の素材が変わっただけで、鎖そのものは外れていない。
仏教が説く「自由」は、まったく逆の方向を向いている。外の世界を変えることより先に、己の内を変えよ、と言う。煩悩を制御できない者に、真の自由はない。己を律することのできない者に、本当の選択はない。宮司が神職の道を歩みながら繰り返し感じてきたのは、まさにこの一点である。修行とは、不自由になることではない。修行とは、煩悩という名の鎖を、自らの手で一本一本外してゆく作業である。その作業を経た者だけが、誰にも頼らず、誰にも流されず、己の判断で正しい道を選べる。それが「自らに由る」ということの、真の意味である。
令和の若者の中に、マルクスや左派思想の言葉に惹かれる者が増えているとすれば、それは彼らの魂が飢えているからだと宮司は思う。何かにつながりたい、社会を変えたい、不正義を正したい。その志の芽は、決して悪いものではない。しかしその芽を、「外への怒り」という土に植えてはならない。「己への鍛錬」という土に植えてこそ、志は花を咲かせる。歴史を見れば明らかである。マルクスの思想が根付いた国々で、自由な人間が育ったという例を、宮司は知らない。育ったのは、国家への依存と、相互監視と、魂の委縮であった。自由は、思想が与えるものではない。自分が、日々の修養によって、自らの手で掴み取るものである。
