学び続ける者は、朽ちることがない

人はなぜ学び続けねばならないのか。この問いは、単なる知識習得の是非ではなく、人が人として生き切るための根本に関わる問いである。佐藤一斎の言葉にある「少而学、則壮而有為。壮而学、則老而不衰。老而学、則死而不朽。」は、人生の各段階を貫く一本の道を静かに示している。それは成功の技術ではなく、人物がどのように鍛えられ、どのように世に残るかという道筋である。
宮司は、学びとは年齢によって意味を変えるものではなく、年齢によって深さを増すものだと考えている。少年期の学びは、知識の蓄積であると同時に、心の骨格をつくる作業である。この時期に身につけた姿勢は、壮年期において決断力となり、責任を引き受ける力となって現れる。若き日に学ばずして成長した者は、表面的には働いているように見えても、いざ判断を迫られた時に迷い、揺れ、時に誤る。空腹は耐えられても、判断の拠り所を失った迷いは耐え難いという一斎の言葉は、現代にも鋭く響く。
壮年期における学びは、さらに重要である。体力や経験に恵まれた時期ほど、人は学ぶ必要を忘れがちになる。だが、この時期に学びを止めた者は、やがて自らの成功体験に縛られ、変化に対応できなくなる。学び続ける壮年は、老いても衰えない。ここで言う衰えとは、肉体の衰えではなく、心の硬直である。学ぶ者は、常に自らを更新し続けるため、年齢を重ねても視野を失わない。
老いてなお学ぶ姿勢は、人生を超えて残るものを生む。老年の学びは、知識を増やすためではなく、人生を照らし返すための学びである。積み重ねてきた経験と学問が結びついた時、その人の言葉や在り方は静かな重みを帯びる。その重みは、死後も人の心に残り、名を語らせる。死して朽ちないとは、名声を誇ることではない。生き方そのものが後の人の指針となることである。
宮司は、学びを止めることは、人であることを止めることに等しいと感じてきた。学びとは学校教育に限られたものではない。日々の出来事から省みる力、人の言葉に耳を傾ける姿勢、古の言葉に己を照らす態度、そのすべてが学びである。学び続ける者は、若さに驕らず、壮年の力に溺れず、老いに甘えない。
現代は情報に溢れ、知識は容易に手に入る。しかし、知識が多いことと、学んでいることは同義ではない。学ぶとは、己を正すことであり、心を耕すことである。宮司は、学び続ける姿勢こそが、人の精神を磨き、社会の混乱の中でも軸を失わぬ力になると信じている。
今日学ぶことは、明日のためだけではない。今日を全うするためである。たとえ明日が約束されていなくとも、今日学ぶ姿勢を失わない者は、その生を裏切らない。学び続ける人生は、静かでありながら強い。その強さこそが、時代を超えて受け継がれる日本人の精神の核心であり、未来に託すべき確かな灯である。
