仁義と慈悲。儒教と仏教が日本人の魂に織り成したもの

手元の書に、こんな言葉があった。「儒教の言葉は冷厳だが、仏教の言葉は情味がある。前者は仁義の学問。後者は慈悲の学問」と。たった数行の言葉だが、宮司はその短さの中に、東洋思想の核心が凝縮されていると感じた。冷厳と情味。仁義と慈悲。この二つは対立しているのではなく、人間という存在の二つの軸を、それぞれの側から照らしている。
儒教の言葉が冷厳だとはどういうことか。儒教は「人はいかにあるべきか」を問う学問である。君は君たるべし、臣は臣たるべし、親は親たるべし、子は子たるべし。この「たるべし」という言葉の中に、ある種の厳しさが宿っている。それは人間に対する高い要求である。人として守るべき道義があり、それを外れることは恥であるという確信。この厳しさを「冷厳」と呼んだのは、感情に流されない道義の堅さを指しているのだと宮司は受け取る。
一方、仏教の言葉が情味を持つとはどういうことか。仏教はすべての生命への平等な憐れみ”慈悲”を根本に置く。慈悲とは、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ取る心のことである。儒教が人間と人間の「関係の道義」を説くとすれば、仏教はあらゆる生命に宿る「苦しみと解放の真理」を説く。儒教が社会の横軸を支えるとすれば、仏教は人間の内面の縦軸に光を当てる。情味とは、論理ではなく、命に対する温もりのことである。
宮司は神道の宮司である。しかし宮司は、儒教も仏教も、日本人の精神の血肉として深く尊重している。神道・儒教・仏教。この三つは、日本という国の精神文化を形作ってきた三つの柱である。神道が自然との共存の中に神を見る信仰であるとすれば、儒教は人間関係の中に道義を見る学問であり、仏教は個人の内面に真理を見る宗教である。この三つが長い歴史の中で混ざり合い、融合し、日本人の魂の複雑さと豊かさを育ててきた。
令和の時代、この三つの柱がそれぞれ揺らいでいると宮司は感じる。神道の自然観は、便利さの追求の中で忘れられつつある。儒教の道義は、個人主義の名のもとに軽んじられつつある。仏教の慈悲は、儀礼の形骸化とともに、内側からの輝きを失いつつある。その結果、何が起きているか。人と自然が切り離され、人と人の間に義が失われ、個人が内側の孤独と闘い続ける社会ができている。
宮司は仁義と慈悲を、もう一度この時代に問い直したいと思っている。仁義とは何か。仁は、人を愛する心である。義は、人として守るべき道筋である。この二つが合わさった言葉が仁義であり、それは単なる古い道徳ではなく、人間が社会の中で正しく生きるための、時代を超えた原理である。組織のリーダーが仁義を持てば、部下は命をかけてついていく。国家のリーダーが仁義を持てば、国民は誇りをもってその旗の下に立つ。
慈悲とは何か。サンスクリット語でマイトリー(慈)とカルナー(悲)という。マイトリーは他者に幸福を与えたいという願いであり、カルナーは他者の苦しみを取り除きたいという願いである。この二つが合わさった慈悲は、単なる同情ではない。相手の苦しみを自分のこととして引き受ける、深い共感の力である。令和の日本に最も欠けているのは、この慈悲の力ではないかと宮司は感じている。
仁義と慈悲は、人間の外側と内側を支える二つの力である。仁義が外側の秩序を守り、慈悲が内側の温もりを守る。この二つが同時に育っている社会は、強くて温かい。外側だけが強く、内側が冷えた社会は、やがて内から崩れる。逆に、内側だけが温かく、外側の秩序が緩んだ社会は、外からの圧力に耐えられない。日本が取り戻すべきは、この両方の力のバランスである。
宮司が安倍晋三元総理のことを思う時、あの方には仁義と慈悲の両方があったと感じる。国家の道義に対する揺るぎない確信と、一人ひとりの国民への温かい眼差し。演説の言葉には、冷厳な現実認識と、人への情味が同居していた。儒教的な志と、仏教的な慈しみが、ひとりの政治家の中で統合されていたとも言える。あの方の背中は、その意味で日本人の精神の理想を体現していた。
神道の宮司として、宮司は日々祈る。しかし祈りの言葉の中には、儒教の教えも、仏教の慈悲も、自然に溶け込んでいる。「この国の人々の心に、義が戻りますように。この国の人々の間に、慈悲が流れますように。自然の神々への畏敬が、再び日本人の暮らしの中に根を下ろしますように」と。これは特定の宗教への帰依ではなく、日本という国が長い年月をかけて育ててきた、精神の豊かさへの祈りである。
令和の若い世代へ、宮司は届けたい。仁義と慈悲を、難しい言葉だと思わないでほしい。仁義とは「この人に対して、自分は誠実であるか」という問いである。慈悲とは「今、目の前にいる人は、何かで苦しんでいないか」という問いである。この二つを毎日、自分に向けて問い続けること。その積み重ねが、大和心を育て、大和魂を継承していく。宮司はそう信じている。
儒教は冷厳。仏教は情味。この二つをともに大切にしてきた日本人は、世界の中でも稀有な精神的豊かさを持つ民族である。その豊かさを捨ててしまうことは、長い歳月をかけて育ててきた宝を、みずから手放すことだ。令和の時代を生きる私たちは、先人から受け取ったこの宝を、次の世代へ誇りをもって渡す責任がある。宮司は今日も神前に立ちながら、そのことを静かに、しかし強く思い続けている。
