格物致知。知ったふりをやめ、現実を見よ

『大学』に、こうある。
「知を致すは物に格るに在り」
知をきわめるためには、物に格る、すなわち物事に向かい、その道理をよく知らなければならないという意味である。これを「格物致知」という。
短い言葉である。しかし宮司は、この四字の中に、今の日本人が失いかけている大切な姿勢があると思う。
知るとは、ただ情報を得ることではない。画面に流れてきた文字を読むことでもない。人から聞いた話をそのまま信じることでもない。知るとは、物事の奥にある筋道を見極めることである。なぜそうなっているのか。何が原因で、何が結果なのか。どこに誠があり、どこに偽りがあるのか。何を守るべきで、何を改めるべきなのか。その道理を、自分の頭と心と足で確かめていくことである。
今の日本には、情報はあふれている。新聞、テレビ、ネット、動画、SNS。朝から晩まで、言葉は洪水のように流れてくる。だが、情報が多いことと、知恵があることとは違う。情報を持つことと、物の道理を知ることとは違う。むしろ、情報が多すぎるために、人はかえって物事を見なくなっているのではないか。
画面を見て、知った気になる。
見出しを読んで、分かった気になる。
誰かの意見を借りて、自分で考えた気になる。
これほど危ういことはない。
宮司は思う。今の日本人に必要なのは、知識を増やすことだけではない。知ったふりをやめることである。
政治を語るなら、まず日本の歴史を知らねばならない。皇室の歩みを知らねばならない。国土の形を知らねばならない。海に囲まれた島国として、何を守らねばならないかを知らねばならない。周辺国がどのような意図を持ち、世界がどのような力で動いているのかを知らねばならない。
それを知らずに、平和だ、人権だ、国際協調だと美しい言葉だけを並べても、国家は守れない。美しい言葉は大切である。しかし、道理を伴わない美しい言葉は、人を眠らせる麻酔にもなる。現実を見ない理想は、時に国を危うくする。
平和を守るためには、平和を壊そうとする力を知らねばならない。自由を守るためには、自由を奪おうとする仕組みを知らねばならない。国民の暮らしを守るためには、食料、エネルギー、物流、技術、教育、家族、地域の現実を知らねばならない。
知らずして、どうして守れるのか。
教育を語るなら、子供たちの現実を知らねばならない。教室で何が起きているのか。家庭で何が起きているのか。子供たちは何に怯え、何に迷い、何を求めているのか。教師はどのような重荷を背負っているのか。親は何に疲れているのか。そこを見ずに、制度の言葉だけを並べても、教育は良くならない。
教育とは、人をつくることである。点数を取らせるだけではない。受験に通すだけでもない。働く意味を教え、父母祖先への感謝を教え、国を愛する心を育て、他者に尽くす喜びを伝えることである。ところが今は、権利ばかりを教え、責任を教えない。個性ばかりを語り、修養を教えない。自由ばかりを叫び、礼を教えない。
これで、強い日本人が育つはずがない。
格物致知とは、教育の根である。物をよく見る。道理を知る。自分の心の良知を明らかにする。そこから人間は育つ。教科書の文字も大切である。試験の点数も時には必要である。しかし、それだけで人は立たない。机の上の知識が、暮らしの中の行いにつながらなければ、知はまだ本物ではない。
経済を語るなら、働く人の汗を知らねばならない。現場を知らねばならない。農家の土を知らねばならない。漁師の海を知らねばならない。工場の機械音を知らねばならない。商店の朝を知らねばならない。介護の疲れを知らねばならない。子育てをしながら働く人の一日を知らねばならない。
数字だけを見て、国民の暮らしを知った気になってはならない。グラフだけを眺めて、日本経済を語ってはならない。経済とは、人の営みである。米一粒にも、魚一尾にも、部品一つにも、誰かの手があり、時間があり、祈りがある。そこを見ない経済は、必ず人を粗末にする。
日本の強さは、現場にあった。真面目に働く人々にあった。約束を守り、手を抜かず、見えないところまで整える職人の心にあった。ところが、効率の名のもとに現場を軽んじ、利益の名のもとに人を削り、便利の名のもとに地域を壊してきた。その結果、何が残ったのか。数字は動いても、人の心は疲れ、地方は痩せ、家族は弱っている。
宮司は、ここにも格物致知が必要だと思う。
現場を見よ。
土を見よ。
人の顔を見よ。
机の上だけで国を動かすな。
神道は、自然の中に神を見る。山も川も海も田畑も、ただの資源ではない。命を生かす働きであり、神々の恵みである。だから日本人は、自然に手を合わせてきた。米をいただく時、ただ栄養を摂っているのではない。天地の恵みと、人の労苦をいただいているのである。
この感覚を失った時、人間は傲慢になる。水道の蛇口をひねれば水が出ることを当たり前と思う。店に行けば米があることを当たり前と思う。電気がつくことを当たり前と思う。国が守られていることを当たり前と思う。家族がいることを当たり前と思う。
当たり前など、一つもない。
すべては、誰かの働きと、先人の積み重ねと、天地の恵みの上にある。その道理を知るところから、感謝が生まれる。感謝が生まれるところから、責任が生まれる。責任が生まれるところから、行動が生まれる。
格物致知は、感謝への道でもある。
また、これは己を知る道でもある。物事をよく見ようとすれば、自分の心の曇りも見えてくる。自分は本当に見ているのか。それとも、自分に都合のよいものだけを見ているのか。自分は真実を求めているのか。それとも、誰かを責める材料を探しているだけなのか。自分は国を思っているのか。それとも、自分の不満を国のせいにしているだけなのか。
この問いから逃げてはならない。
人は、自分の見たいものを見る。信じたいものを信じる。怒りたい相手を決めてから、そこに理由を貼りつける。これでは、いくら情報を集めても、良知は磨かれない。むしろ心は濁っていく。
良知とは、人の内にある正しさを感じる働きである。悪いことをすれば胸が痛む。人を助ければ心が温かくなる。嘘をつけば落ち着かない。父母に背けば、どこかで申し訳なさが残る。祖国を粗末にすれば、心の根が寂しくなる。その働きが良知である。
しかし、良知は放っておけば曇る。欲に曇る。怒りに曇る。怠け心に曇る。流行に曇る。恐れに曇る。だからこそ、物の道理を知り、心を清め、行いを正さねばならない。
神前に立つとは、神さまに願い事を並べるだけではない。自分の心を照らされることである。自分は見ているか。逃げていないか。嘘をついていないか。やるべきことを先送りしていないか。父母に恥じぬか。祖先に恥じぬか。子孫に恥じぬか。そう問われる場である。
今の日本は、先送りの国になってはいないか。
人口が減っていると知っている。地方が疲れていると知っている。教育が揺れていると知っている。国防が厳しい局面にあると知っている。家庭が弱っていると知っている。若者が将来に不安を抱えていると知っている。
知っているはずである。
ならば、なぜ動かないのか。
知っていて動かないなら、それはまだ知っていないのと同じである。頭では知っていても、腹に落ちていないのである。本当に知ったなら、人は動く。火事だと本当に分かれば、人は走る。子供が危ないと本当に分かれば、人は手を伸ばす。国が危ういと本当に分かれば、黙ってはいられない。
知は、行動に至って初めて本物となる。
安倍晋三元総理は、日本を取り戻すと訴えられた。その言葉は、単なる政治的な標語ではなかったと宮司は思う。日本人が、日本の現実を見よという呼びかけであった。歴史を見よ。世界を見よ。国民の暮らしを見よ。安全保障を見よ。教育を見よ。そして、日本人として何を取り戻さねばならないのかを、自分自身に問えということであった。
取り戻すためには、まず知らねばならない。
知らぬものは、取り戻せない。
知らぬ国を、愛することはできない。知らぬ歴史を、守ることはできない。知らぬ家族を、支えることはできない。知らぬ地域を、立て直すことはできない。知らぬ自分を、正すことはできない。
だから、格物致知なのである。
令和の日本人よ、知ったふりをやめよ。
現実を見よ。歴史を学べ。現場に立て。父母祖先に手を合わせよ。子供たちの目を見よ。働く人の汗を見よ。国を守る人々の覚悟を見よ。山河の恵みを見よ。そして、自分の心の中にある怠け、甘え、恐れ、慢心を見よ。
見ることは、時に苦しい。知ることは、時に痛い。だが、その痛みから逃げていては、人も国も立ち直らない。
格物致知。
物に向かい、道理を知り、良知を明らかにする。これは古い学問の言葉ではない。今日の日本を立て直すための、まことに切実な道である。
知ったなら、行え。
見たなら、逃げるな。
道理を知ったなら、その道理に恥じぬ生き方をせよ。
日本は、まだ終わっていない。だが、知ったふりを続ける国に未来はない。現実を見つめ、道理を知り、良知を磨き、黙って足元から行動する日本人が増えるなら、この国は必ず立ち直る。
その一人に、今日から自分がなることである。
