『古事記』に記された神々の物語は、明るく清らかな場面だけで成り立っているのではない。深い悲しみ、怒り、死、そして激しい争いの中からも、新たな神々が生まれている。宮司は、この神話を読むたびに、人間の人生にも無駄な涙や苦しみはないのだと教えられる。
伊邪那美命は、火の神である火之迦具土神をお産みになったため、御身を焼かれて亡くなられた。共に国を生み、多くの神々を生んできた愛しい妻を失った伊邪那岐命の悲しみは、いかばかりであったことか。
伊邪那岐命は言われた。
「愛しい妻の命を、たった一柱の子と引き換えにしてしまうとは思わなかった」
そして、亡き妻の枕元に這い伏し、足元に這い伏して、声を上げて泣き悲しまれた。その涙から生まれた神が、泣沢女神である。泣沢女神は、香山の麓の木の下に鎮まる神として伝えられている。
宮司は、この涙から神が生まれたという物語に、日本神話の深い心を見る。
人は、涙を弱さだと思うことがある。人前で泣いてはならない。悲しみを見せてはならない。歯を食いしばって耐えなければならない。そのように自分へ言い聞かせることもある。
しかし、本当に愛した者を失った時、涙が流れるのは当然である。悲しむべき時に悲しみ、泣くべき時に泣くことは、決して恥ではない。涙は、失った者への愛が真実であった証しでもある。
伊邪那岐命ほどの大神であっても、妻を失えば地に伏して泣かれた。神話は、悲しみを隠すことを立派だとは教えていない。悲しみを正面から受け止め、その涙を流し切るところから、新たなものが生まれると教えている。
泣沢女神は、悲しみそのものを否定する神ではない。人が涙によって心を洗い、失った者を弔い、再び歩き始めるための神ではないかと宮司は思う。
涙を流すことで、人は自らの無力さを知る。自分の力ではどうにもならないことがあると知る。命は自分の思いどおりにはならず、愛する者とも必ず別れる日が来る。その厳しい真実に触れた時、人間は初めて謙虚になる。
涙には、心に積もった塵を洗い流す力がある。
泣くことを我慢し続ければ、悲しみは心の奥で固まり、やがて怒りや恨みとなって現れることがある。悲しい時には、悲しいと認めればよい。亡き人を思い、声を上げて泣けばよい。
ただし、いつまでも悲しみの中に沈み続けてはならない。
涙を流した後には、残された命をどう生きるかを考えなければならない。亡き人からいただいた愛を、自らの生き方へ変えていかなければならない。
伊邪那美命は、出雲国と伯伎国の境にある比婆山に葬られたと伝えられている。伊邪那岐命は、愛する妻を葬った後、火之迦具土神に激しい怒りを向けられた。
妻を死に至らしめたのは、この火の神である。
伊邪那岐命は腰に佩いていた十拳剣を抜き、火之迦具土神の首を斬られた。
この場面を、人間の道徳だけで簡単に裁いてはならない。そこにあるのは、愛する者を奪われた大神の、抑え切れぬ悲しみと怒りである。
宮司は、怒りそのものがすべて悪いとは思っていない。
不正を見ても怒らない。大切なものを傷つけられても黙っている。弱い者が苦しめられても、自分には関係がないと背を向ける。それは穏やかさではなく、無関心である。
守るべきものを守るための怒りがある。正義を踏みにじる者へ向ける怒りがある。国や家族、命の尊厳を守ろうとする者の心には、時として烈火のような怒りが生まれる。
しかし、怒りには大きな力があるだけに、扱いを誤れば自分も他人も焼き尽くす。
火は、人を温め、食物を調理し、文明を築く。一方で、制御を失えば家も山も焼き尽くす。火之迦具土神の誕生と伊邪那美命の死は、火の恵みと恐ろしさの両方を示している。
人間の怒りも同じである。
正しく用いれば、不正に立ち向かう勇気となる。自らの怠惰を焼き払い、人生を変える決意ともなる。しかし、感情のままに振り回せば、愛する者との縁まで断ち切り、自らの心も傷つけてしまう。
伊邪那岐命が振るわれた十拳剣からは、さらに多くの神々が生まれた。
剣の先についた血が神聖な岩へ飛び散り、石拆神、根拆神、石筒之男神が生まれた。剣の根元についた血からは、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神が生まれた。建御雷之男神は、後に国譲りの神話において大きな役割を果たす、勇猛な神である。
また、剣の柄にたまった血が指の間から流れ、闇淤加美神と闇御津羽神が生まれた。岩を裂く神、雷の神、水を司る神。激しい斬撃と流れた血の中から、自然を動かし、国土を守る神々が次々と現れたのである。
宮司は、ここに古事記の生命観の力強さを見る。
死によって、すべてが終わるのではない。破壊の中からも、新しい力が生まれる。悲しみも怒りも、ただ人を滅ぼすだけではなく、受け止め方によっては、新たな志や働きへ変わっていく。
人生において、大切なものを失うことがある。積み上げてきた仕事が崩れることもある。信じていた人に裏切られ、自分のすべてを否定されたように感じることもある。
その時、人は思う。
もう何も残っていない。自分の人生は終わってしまった、と。
しかし、焼け跡から新しい芽が出るように、人間の人生にも、失った後にしか生まれないものがある。
大きな悲しみを経験した者には、同じ悲しみにある人の心が分かる。理不尽な目に遭った者には、不正に苦しむ者を守ろうとする意志が生まれる。失敗によってすべてを失った者には、虚栄を捨てて一から始める強さが生まれる。
苦難に意味があるというのは、苦しめば自然に立派になるということではない。
苦しみを恨みだけで終わらせる者もいる。怒りを人への攻撃に変え、自分の周囲まで不幸にする者もいる。大切なのは、悲しみや怒りの中から何を生み出すかである。
伊邪那岐命の剣からは、破壊だけではなく、神々が生まれた。
私たちもまた、人生で流した涙や、胸に抱いた怒りから、何を生み出すのかを問われている。
人を恨み続けるのか。それとも、同じ苦しみを誰にも味わわせないために働くのか。
自分を傷つけた者への復讐に生きるのか。それとも、自らを磨き、より大きな人間となるのか。
悲しみを抱えたまま立ち止まるのか。それとも、その悲しみを誰かを守る力へ変えるのか。
そこに、人間の尊さが現れる。
斬られた火之迦具土神の身体からも、さらに八柱の山の神々が生まれた。頭から正鹿山津見神、胸から淤縢山津見神、腹から奥山津見神、陰部から闇山津見神、左手から志芸山津見神、右手から羽山津見神、左足から原山津見神、右足から戸山津見神が生まれた。
一柱の神の身体から、峰、奥山、谷、麓、原野など、山のさまざまな姿を司る神々が生まれたのである。
日本人は、山を単なる土と岩の塊とは見てこなかった。
山には水の源があり、木々が育ち、獣が住み、里の暮らしを支える。雲を生み、雨を呼び、田畑を潤す。時には噴火や崩落によって人を恐れさせるが、同時に人々へ限りない恵みを与える。
山の峰にも、奥にも、谷にも、麓にも、それぞれ神がおられる。
それは、自然のどの部分も粗末にしてはならないという、日本人の慎みの心である。
山を切り崩し、川を汚し、目先の利益だけで自然を扱えば、やがて人間自身がその報いを受ける。自然は、人間の所有物ではない。神々から一時的に預かり、子孫へ手渡すものである。
火之迦具土神の身体から山の神々が生まれたという神話には、火山によって山や大地が形成されてきた自然の記憶を感じることもできる。しかし、神話は科学の説明書ではない。
神話が伝えているのは、自然界のあらゆる営みの中に、生命と神聖さを感じ取る心である。
血が岩に触れれば神が生まれ、身体から山の神が生まれる。古事記の世界には、死んだ物質など存在しない。すべてが命を宿し、姿を変えながら次の働きへ移っていく。
人間の身体も、死ねば土へ還る。土となり、草木を育て、その草木が新しい命を養う。命は一つの形に留まらず、巡り続けている。
だからこそ、今の自分の命を、自分だけのものだと思ってはならない。
父母と祖先から受け継ぎ、天地自然の恵みによって支えられ、やがて次の世代へ返していく命である。
伊邪那岐命が火之迦具土神を斬った太刀は、天之尾羽張、またの名を伊都之尾羽張と呼ばれる。この剣もまた、単なる武器ではない。後の神話へつながる神聖な力を持つものとして語られている。
剣は、人を斬るためだけの道具ではない。
古来、日本人にとって剣は、邪を断ち、迷いを断ち、自らの弱さを断つ象徴でもあった。
宮司は、人間には時として、断ち切らなければならないものがあると思っている。
怠け心を断つ。過去への執着を断つ。人への恨みを断つ。悪い習慣を断つ。自分を甘やかし続ける弱い心を断つ。
何でも受け入れ、何でも抱え続けることが優しさではない。捨てるべきものを捨て、離れるべきものから離れ、進むべき道を選び取る。その決断がなければ、人は新しい人生へ進めない。
伊邪那岐命の剣は、悲しみに任せて振るわれた剣であった。しかし、その剣から多くの神々が生まれ、後の国づくりを支える力となった。
人間の過ちや激しい感情からも、反省と覚悟があれば、新しいものを生み出すことができる。
大切なのは、自分の怒りを正義と決めつけないことだ。怒りの中に私欲や慢心が混じっていないかを見なければならない。自分は愛する者のために怒っていると思いながら、実は自分の面子が傷ついたことに腹を立てているだけかもしれない。
神前に立つ時には、自分の感情をそのまま正しいと思わず、まず静めなければならない。
宮司も、腹が立つ時がある。理不尽に思うことも、許し難いと感じることもある。しかし、その感情のまま言葉を発し、行動すれば、後で取り返しのつかないことになる。
だからこそ、祈る。
この怒りを、破壊ではなく正しい力へ変えてください。この悲しみを、恨みではなく人を救う慈しみへ変えてください。この苦難から、自分が果たすべき使命を悟らせてください。
祈りとは、感情を消してもらうことではない。その感情を清め、正しい方向へ導いていただくことである。
古事記に記された神々の生成は、清らかな光の中だけで起きたのではない。涙から神が生まれ、血から神が生まれ、斬られた身体からも神が生まれた。
ここに、日本神話の強さがある。
人生の美しい部分だけを語らず、死も、悲しみも、怒りも、血も正面から描く。しかし、そこに絶望して終わらない。すべてを次なる生命と働きへ変えていく。
日本人は、災害や戦乱、飢饉など、数多くの苦難を経験してきた。そのたびに、亡き人を丁重に祀り、焼け跡を片づけ、田畑を耕し、家を建て直し、子供を育ててきた。
悲しみの中から、祭りを生んだ。亡き人への祈りから、地域の結びつきを生んだ。困難の中から、助け合いと忍耐の精神を育ててきた。
神話に描かれた神々の生成は、日本人が歩んできた道そのものでもある。
失ったからこそ、守るべきものを知る。壊れたからこそ、何を建て直すべきかを知る。泣いたからこそ、人の涙に寄り添える。
人生において、悲しみを避け切ることはできない。怒りを覚える出来事もある。大切なものが壊れ、すべてが終わったと思う日もあるだろう。
しかし、その時こそ問わなければならない。
この涙から、何を生み出すのか。
この怒りを、何のために使うのか。
この喪失の後に、どのような自分として立ち上がるのか。
宮司は、人間の真価は、何も起きていない時ではなく、すべてを失ったと思う時に現れると考えている。
恨みに堕ちるのか。自暴自棄になるのか。それとも、涙を拭い、亡き人の志を胸に、新たな一歩を踏み出すのか。
悲しみも怒りも、人間に与えられた力である。
その力を破壊へ向けるか、創造へ向けるかは、自分の心に懸かっている。
神々は、涙からも、血からも、死からもお生まれになった。ならば私たちも、人生の暗闇から新しい志を生み出すことができる。
泣くべき時には泣けばよい。怒るべき時には怒ればよい。しかし、その後に何を残すかを考えなければならない。
涙から優しさを生み、怒りから正義を生み、喪失から志を生むこと。
それこそが、古事記の神々の生成が、今を生きる私たちへ伝える尊い教えである。
神話を学ぶとは、神々の御名を覚えるだけではない。神々の物語を通して、自分の苦しみをどう生かし、いただいた命をどう燃やすかを学ぶことである。
どのような悲しみの中にも、新しい神は生まれる。
どのような暗闇の中にも、次なる生命の種は宿っている。
宮司は、そう信じている。神話を語り継ぐことは、日本人の心の根を守り、祖先から託された精神を子や孫へ手渡すことでもある。