祈りは届いた。いま、高市早苗総裁の時代が始まる

神に祈りを捧げるという行為は、単なる願望の表明ではない。祈りとは、己の内にある弱さを克服し、神々の意志と一体となるための修行である。願いが叶うとは、神が動くのではなく、人が変わることなのだ。

宮司は、毎朝午前二時半に起きて山に登る。雨の日も風の日も、ただ無心に歩を進める。頂を目指すその道は、心の修行そのものだ。山頂にたどり着くたび、自然の偉大さと己の小ささを思い知る。千日回峰早朝修行の九百四十一日目を迎えた今も、ただ黙々と続ける。なぜなら、継続こそが力であり、真の祈りは日々の積み重ねの中に宿るからだ。

神々に高市早苗氏の総理就任を祈った日から、年月が過ぎた。その願いはやがて現実となり、日本を再び正しい道に導く光が差し始めた。人の力を超えたものが動く時、そこには清らかな信念がある。信仰とは盲目的な従属ではなく、己の使命を自覚し、国の未来を思う覚悟である。

安倍晋三総理の銅像を神社の境内に建立するという夢も、来年六月に実現する見通しとなった。神々への感謝とともに、この国を導いた先人の志を形にすることこそ、後世への責任だと宮司は感じている。国を想い、命を懸けた人々の志を風化させてはならない。

日本という国は、祈りの国である。自然に感謝し、祖先を敬い、目に見えぬものに心を寄せる民族である。現代の日本人は、便利さと速度の中で、その大切な感性を置き去りにしてしまったように見える。しかし、忘れてはならない。祈るということは、感謝を知り、己を律し、他者に優しくなる道でもある。

修行を重ねていくうちに、人は不思議と他人の痛みに敏感になる。苦しみを知る者ほど、他者に温かくなれる。だからこそ、宮司は修行を続ける。無欲であること、愚直であること、その中にこそ日本人の美徳がある。

夢は神が叶えるのではない。神の御前で、ひたすら努力し続けた者にのみ与えられる恩寵である。安倍神像神社の夢も、安倍晋三総理の銅像建立も、そして高市早苗氏の総理就任も、信念と継続が生んだ現実である。

人は、信じる力を持つ限り、必ず道を切り開ける。宮司は、今日も夜明け前の静寂の中を歩く。祈りを胸に、山の頂を目指して。そこに日本人としての誇りがあり、神々とともに生きる道がある。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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