三十を越したら、教訓に耳を傾けよ。葉隠に学ぶ日本人の責任

三十歳を越えるということは、単に年齢の数字が一つ積み重なるということではない。宮司は、そこに人間としての責任の境目があると考えている。二十代までは、未熟さも若さの名において多少は許されることがある。「若気の至り」という言葉で、周囲が大目に見てくれることもある。親の育て方が悪かった、環境が悪かった、学校が悪かった、会社が悪かった、上司が悪かった、同僚が悪かったと、自分の至らなさを外へ押し出すこともできたかもしれない。しかし三十を越えれば、もはやそのような言い訳は通用しない。社会はその人を一人前の大人として見る。結婚し、子を持ち、家庭を支えている同級生もいる。職場で責任ある立場に立ち、後輩や部下を導く者もいる。その年齢になってなお、自分の失敗を親や周囲のせいにするならば、それは未熟ではなく、すでに責任から逃げる生き方なのである。
事故を起こしても、不祥事を起こしても、約束を破っても、遅刻を重ねても、それはもはや誰かの責任ではない。すべて自分の責任である。ここを曖昧にしたまま年を重ねるところに、人間の崩れが始まる。年齢を重ねれば自然に人格が備わるのではない。むしろ、教えを受ける心を失った人間は、年齢とともに我が強くなり、言い訳が巧みになり、反省が鈍くなっていく。若い頃の失敗は、正しく受け止めれば修養となる。しかし、三十を越えてなお同じ過ちを繰り返し、それを環境や他人のせいにするならば、その人は年を重ねているのではなく、愚かさを積み重ねているのである。
『葉隠聞書』には、まことに厳しく、また深い教えが記されている。世の中には教訓を述べる人は多い。しかし、その教訓を喜んで聞く人は少ない。まして、その教訓をよく理解し、実際に従って生きる人はまれである。三十歳も越えた者には、もはや教訓してくれる人もいなくなる。そうなると教訓の道がふさがり、人は我儘となり、一生過ちを重ね、愚かさを増して廃れてしまう。ゆえに、道理を知る人に何とか近づき、教訓を受けるべきであるというのである。宮司はこの言葉を読むたびに、葉隠が語っているのは昔の武士の心得にとどまらず、現代を生きる日本人すべてに向けられた、人間修養の根本であると感じる。
人は、注意されることを嫌う。年を重ねるほど、その傾向は強くなる。自分より若い者から意見されれば腹を立て、同僚から批判されれば相手の欠点を探し、上司から叱責されれば心の中で反発する。自分の非を認めるより先に、自分を守る言葉が出てくる。だが、その瞬間にこそ、人間の器量が問われているのである。教訓を受けるとは、相手の言葉に無条件に従うことではない。まず一度、己を空にして聞くことである。自分の言い分、自分の面子、自分の過去、自分の正しさをいったん脇に置き、相手の言葉の中に、自分を改めるべき一点がないかを探すことである。これができる人間は、いくつになっても成長する。これができない人間は、たとえ知識があり、地位があり、年齢を重ねていても、内面は幼いままである。
宮司が特に戒めたいのは、人には厳しく、自分には甘い生き方である。上司や同僚には正論を述べる。社会には批判をする。政治にも会社にも家庭にも、不満を並べる。ところが、当の本人は時間を守らず、約束を軽んじ、挨拶を粗末にし、感謝を忘れ、自分の責任を曖昧にする。これでは、いかに立派な言葉を語っても、人はついてこない。信用とは、口で築くものではない。日々の小さな行いによって積み重なるものである。反対に、不信もまた、ある日突然生まれるものではない。遅刻、約束違反、無責任な言葉、聞く耳を持たぬ態度、そうした小さな破れが重なり、周囲の人々は静かに離れていくのである。
日本という国柄は、本来、己を慎むところに美しさを見出してきた国である。声高に自己主張する者が偉いのではない。人を押しのけて前に出る者が強いのでもない。親を敬い、師を尊び、先祖に感謝し、地域に尽くし、与えられた役割を誠実に果たす。その静かな責任感の積み重ねによって、日本の社会は保たれてきた。神道においても、まず清めがある。清めとは、外の汚れを払うだけではない。己の心の濁りを払い、我を鎮め、まっすぐな心で神前に立つことである。人の教訓を受け入れる心も、これと同じである。己の我を鎮めなければ、どれほど尊い言葉も心には入ってこない。
武士道とは、ただ勇ましい言葉を語ることではない。刀を振るうことでも、敵を打ち負かすことでもない。真の武士道とは、己に克つことである。葉隠の教えもまた、死を急ぐ思想ではなく、いかに今を真剣に生きるかという覚悟の書である。三十を越した者に教訓する人がいなくなるという言葉は、実に恐ろしい。なぜなら、それは周囲がその人を尊重しているからではなく、言っても無駄だと思われ始めるということでもあるからだ。人から注意されなくなった時、人は自由になったのではない。むしろ、自分を正してくれる縁を失いつつあるのである。
これからの日本に必要なのは、耳ざわりのよい言葉を語る大人ではない。教訓を受け止めることのできる大人である。自分の非を認め、頭を下げ、改めることのできる大人である。家庭において親が責任を引き受け、職場において上に立つ者が身を正し、地域において年長者が背中で教え、政治において為政者が国家百年の大計を忘れず、国民一人ひとりが自分の務めを果たす。そのような大人の姿があって初めて、子供たちは日本人としての生き方を学ぶのである。教育とは、教科書の中だけにあるものではない。大人の姿そのものが、最も厳粛な教育なのである。
戦後の日本は、権利を語ることには長けたが、責任を語ることには臆病になった。自由を求める声は大きくなったが、自由を支える自制の徳は弱くなった。批判する力は育ったが、批判される力は育っていない。宮司は、ここに現代日本の深い病があると感じている。国家の再生とは、制度を変えることだけではない。経済を伸ばすことだけでもない。まず日本人が、己を正すことから始めなければならない。約束を守る。時間を守る。親に感謝する。人の話を最後まで聞く。自分の過ちを認める。こうした当たり前のことが崩れたところに、どれほど立派な国家論を語っても、土台は固まらない。
三十を越したら、教訓に耳を傾けよ。これは三十代だけに向けられた言葉ではない。四十を越しても、五十を越しても、六十を越しても、人は教えを受ける心を失ってはならない。むしろ、年を重ねるほど、意識して道を知る人に近づかなければならない。書物に学び、先人に学び、神前に頭を垂れ、時には年下の言葉にも耳を澄ませる。その謙虚さを失わぬ人間だけが、晩年に至ってなお清々しい光を放つのである。
葉隠の言葉は、過去の武士の遺訓ではない。令和の日本人に突きつけられた、厳粛なる鏡である。人を批判する前に、まず己を顧みよ。人に教訓する前に、まず教訓を受ける人となれ。自分を守る言葉を捨て、心を空にして聞け。その一事を忘れぬところに、人格の修養があり、家庭の再建があり、職場の信頼があり、国家の甦りがある。
宮司は、今日もこの葉隠の一節を胸に刻みたい。教訓を喜ぶ人となること。道を知る人に近づくこと。己の我を鎮め、責任ある日本人として静かに生きること。そこにこそ、古来より日本人が大切にしてきた誠の道がある。三十を越した者は、もはや若さに甘えてはならない。年齢にふさわしい責任を引き受け、言葉ではなく行いによって信用を積み、神前にも、人前にも、祖先の御霊の前にも恥じぬ生き方を志すべきである。日本の未来は、そのような一人ひとりの大人の覚悟から、静かに、しかし確かに甦っていくのである。
