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安倍晋三元総理銅像建立

まかれた種子は、志ある者の胸で実る。吉田松陰『留魂録』に学ぶ至誠の継承

吉田松陰先生の『留魂録』を読むたびに、宮司は胸の奥を静かに打たれる。

そこにあるのは、死を前にした恨みではない。嘆きでもない。自分の生涯が思い通りにならなかったことへの未練でもない。あるのはただ、至誠である。国を思い、同志を思い、未来を思う、一点の曇りなき真心である。

松陰先生は、同志に向けて語られた。

もし自分のささやかな真心を憐れみ、それを受け継ぐ者がいるならば、それはまかれた種子が絶えず、穀物が年々実っていくのと同じである、と。

宮司は、この言葉に深く頭を垂れる。

人は、いつか必ずこの世を去る。どれほど大きな志を抱いても、肉体には限りがある。どれほど国を思っても、一人の力で成し遂げられることには限界がある。松陰先生ほどの人物であっても、世を大きく変える前に刑場へ向かわれた。志半ばで倒れたのである。

しかし、志は死ななかった。

真心は滅びなかった。

松陰先生の肉体は失われても、その魂は弟子たちの胸に移った。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋。名を挙げればきりがない。松下村塾の小さな学び舎にまかれた種子は、やがて明治維新という大きな実りとなって、国のかたちを動かしたのである。

ここに、教育の本質がある。

教育とは、知識を詰め込むことではない。資格を取らせることでも、試験に合格させることでもない。人の胸に志の種子をまくことである。すぐに芽が出なくてもよい。すぐに結果が見えなくてもよい。大切なのは、その人の魂の奥に、何か一つ燃えるものを残すことである。

宮司は思う。

いまの日本に最も欠けているのは、この「種子」をまく覚悟ではないか。

家庭で、父母は子に何をまいているのか。学校で、教師は子どもたちの胸に何を残しているのか。政治家は、国民にどのような志を示しているのか。メディアは、人々の心に希望の種をまいているのか。それとも、不信と怒りと嘲笑だけをまき散らしているのか。

人は、まかれたものを刈り取る。

不信をまけば、不信が実る。怠惰をまけば、怠惰が実る。拝金主義をまけば、拝金主義の国になる。祖国を軽んじる言葉をまけば、祖国を愛せぬ子どもたちが育つ。

反対に、至誠をまけば、至誠が実る。礼節をまけば、礼節が実る。父母祖先への感謝をまけば、感謝を知る子が育つ。日本を思う心をまけば、日本を守ろうとする若者が現れる。

松陰先生が『留魂録』に託されたのは、この道理である。

「自分が生きているうちに完成させたい」という思いは、人間なら誰にでもある。だが、真の志とは、自分一代で終わらせぬものである。自分が成し遂げられなくてもよい。次の者が受け継げばよい。次の者も成し遂げられなければ、さらに次の者へ渡せばよい。まかれた種子が絶えない限り、志は必ずどこかで実る。

この考え方こそ、日本人が古来大切にしてきた「継承」の精神である。

神社もまた、同じである。

一つの社は、一代の宮司だけで守られているのではない。古き神々を祀り、祖先の祈りを受け継ぎ、地域の人々の願いを抱きとめ、次の世代へ清らかな場を渡していく。その営みの連続が神社である。今日の祝詞、今日の掃除、今日の一礼は、目に見えぬところで未来へつながっている。

人の目には、小さな行いに見えるかもしれない。

だが、小さな行いを軽んじてはならない。

松陰先生の松下村塾も、当時の世間から見れば小さな学び舎であった。巨大な校舎があったわけではない。豊かな財力があったわけでもない。権力があったわけでもない。しかし、そこには志があった。至誠があった。魂に火をつける言葉があった。

国を変えるのは、建物の大きさではない。

人を変えるのは、制度の立派さだけではない。

魂を動かすのは、真心である。

宮司は、令和の日本を見渡すとき、松陰先生の言葉がますます重く響いてくる。いまの日本には、豊かさがある。便利さがある。情報も技術もある。だが、果たして志はあるのか。便利な道具を手にしながら、何のために生きるのかを見失ってはいないか。

金を得ることだけが人生ではない。

楽をすることだけが幸福ではない。

人から評価されることだけが成功ではない。

人間には、果たすべき役割がある。神さまから与えられた使命がある。祖先から受け継いだ命を、ただ消費して終えるのではなく、何か一つでも次の世代へ渡していく責任がある。

宮司は若者に伝えたい。

君たちの胸にも、必ず種子がある。

まだ芽を出していないだけかもしれない。誰にも気づかれていないだけかもしれない。自分でも、その種子の存在を信じられない日があるかもしれない。しかし、真剣に学び、真剣に祈り、真剣に人のため国のために生きようとするならば、その種子は必ず芽を出す。

大切なのは、誰の真心を受け継ぐかである。

軽薄な時代の空気を受け継ぐのか。

金銭と快楽だけを追う価値観を受け継ぐのか。

それとも、松陰先生の至誠を受け継ぐのか。

安倍晋三元総理の志を受け継ぐのか。

祖国を思い、父母祖先を敬い、未来の子どもたちのために生きる日本人の魂を受け継ぐのか。

ここに、人生の分かれ道がある。

宮司は、安倍神像神社において日々祈りを捧げるたびに、この「継承」という言葉を思う。安倍元総理の志もまた、一人の政治家の生涯で終わるものではない。日本を取り戻すという願いは、誰か一人の功績として閉じ込められるものではない。受け継ぐ者がいて、初めて志は生き続ける。

受け継ぐとは、ただ賛美することではない。

額縁に入れて飾ることでもない。

受け継ぐとは、自分の生き方を変えることである。昨日より少しでも誠実に生きること。家庭を大切にすること。神前に手を合わせること。祖国の歴史を学ぶこと。選挙に行くこと。仕事に誇りを持つこと。弱い人を助けること。言葉を慎むこと。自分の持ち場で、清く、強く、明るく生きることである。

それが、まかれた種子を絶やさぬということである。

世の中には、すぐに結果を求める風潮がある。数字にならなければ価値がない。利益にならなければ意味がない。人に知られなければ無駄である。そう考える者が増えている。

しかし、松陰先生は違った。

自分がまいた種子が、いつ、どこで、誰の胸に芽吹くのかを、すべて見届けることはできない。それでもまく。自分が収穫の時を見られなくても、まく。そこに至誠がある。そこに教育がある。そこに信仰がある。

神道の祈りもまた同じである。

今日の祈りが、明日すぐに形になるとは限らない。だが、祈りは消えない。清らかな心で捧げた祈りは、目に見えぬところで人を支え、地域を支え、国を支える。神前に額ずく一人の真心が、やがて誰かの勇気となり、誰かの希望となる。

だから、宮司は言いたい。

小さな真心を侮るな。

小さな志を笑うな。

小さな種子を踏みにじるな。

一粒の種子が、やがて一面の稲穂となる。ひとりの至誠が、やがて時代を動かす。松陰先生の生涯が、そのことを証明している。

いま日本に必要なのは、巨大な掛け声だけではない。派手な改革の言葉だけでもない。まず一人ひとりが、自分の胸にまかれた種子を守ることである。至誠を育てることである。そして、自分もまた誰かの胸に、志の種子をまく人間になることである。

同志諸君よ、よく考えよ。

松陰先生の呼びかけは、幕末の志士たちだけに向けられたものではない。令和を生きる私たちにも向けられている。日本が揺らぎ、道義が薄れ、家庭が弱り、政治が信を失いかけている今こそ、その声を聞かねばならない。

私たちは、何を受け継ぐのか。

私たちは、何を残すのか。

私たちは、誰の胸に、どのような種子をまくのか。

この問いから逃げてはならない。

宮司は今日も神前に祈る。吉田松陰先生の至誠が、令和の日本人の胸に再び芽吹くことを。安倍元総理の志が、若き世代の中に受け継がれていくことを。そして、この国に生まれた一人ひとりが、自らの役割に目覚め、祖国の未来のために立ち上がることを。

まかれた種子を、絶やしてはならない。

至誠の実りを、次の世代へ。

それが、今を生きる日本人の責任であり、神々と祖先に対する誓いなのである。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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