『古事記』には、天照大御神と建速須佐之男命が、天の安河を挟んで「誓約」を行う場面がある。誓約は「うけひ」と読み、神意に従って物事の真偽や心の正邪を明らかにしようとする、神聖な誓いである。
宮司は、この誓約の物語を読むたびに、人間の潔白とは何によって証明されるのかを考えさせられる。自分には邪心がないと、口で申し立てるだけでは足りない。誠の心は、言葉だけではなく、その人の覚悟と、その後に現れる結果によって示されなければならない。
建速須佐之男命は、亡き母のいる根の堅州国へ行きたいと泣き続け、父神である伊邪那岐大御神から海原を治める国を追放された。そして、根の国へ向かう前に、姉神である天照大御神へ事情を申し上げようとして、高天原へ昇られた。
ところが、その勢いはあまりにも凄まじいものであった。須佐之男命が天へ昇ろうとすると、山川はことごとく動き、国土全体が震えたという。
天照大御神は、その異変を聞いて警戒された。
「弟が昇って来るのは、善良な心からではないであろう。私の国を奪おうとしているのかもしれない」
そう考えられた天照大御神は、髪を解いて勇ましくみづらに結び、八尺の勾玉を連ねた御統の珠を身に巻きつけ、背には千本の矢を収めた靫を負い、脇にも五百本の矢を備えられた。弓を手にし、大地を踏みしめ、土を蹴散らしながら、須佐之男命を待ち受けられたのである。
宮司は、この天照大御神の御姿に、国を治める者の覚悟を見る。
相手が弟であっても、国を奪う疑いがあるならば、情に流されてはならない。身内だからといって警戒を怠らず、守るべきもののためには武装して立ち向かう。天照大御神は、ただ穏やかに光を照らすだけの神ではない。国土と秩序を守るためには、毅然として弓を構えられる神である。
慈しみと厳しさは、相反するものではない。本当に大切なものを守ろうとするならば、時には厳しくならなければならない。何をされても黙って受け入れることが、優しさではない。疑うべき時に疑い、備えるべき時に備え、守るべきものを守り抜く。それもまた、責任ある者の務めである。
天照大御神が「なぜ昇って来たのか」と問われると、須佐之男命は答えられた。
「私に邪心はありません。父神から追放されたため、亡き母の国へ向かいます。その事情を申し上げるために参りました。謀反の心はありません」
しかし、天照大御神は、言葉だけでその申し立てを信じられたわけではない。
「ならば、お前の心が正しいことを、どのようにして証明するのか」
この問いは重い。
人は、自らを正しいと言う。自分には悪意がない、自分は嘘をついていない、自分こそ正義だと主張する。しかし、人の心は目には見えない。いくら美しい言葉を並べても、その言葉だけで心の中まで証明することはできない。
須佐之男命は答えられた。
「それぞれ誓約をして、御子を生みましょう」
こうして二柱の神は、天の安河を挟んで誓約を行うこととなった。
天照大御神は、須佐之男命が佩いていた十拳剣を受け取り、それを三つに折り、天の真名井の水で清め、噛み砕いて吹き出された。その息の霧から、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の三柱の女神が生まれた。
この三柱の女神は、後に宗像三女神として祀られる神々である。多紀理毘売命は沖津宮、市寸島比売命は中津宮、多岐都比売命は辺津宮に鎮まり、海上交通を守り、国と国、人と人とを結ぶ尊い神々として信仰されてきた。
次に須佐之男命は、天照大御神が身につけていた八尺の勾玉の御統を受け取り、同じように真名井の水で清め、噛み砕いて吹き出された。
そこから、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の五柱の男神が生まれた。
天照大御神は、後に生まれた五柱の男神について、自らが身につけていた勾玉から生まれたため、自分の御子であるとされた。一方、先に生まれた三柱の女神は、須佐之男命の十拳剣から生まれたため、須佐之男命の御子であるとされた。
須佐之男命は、自らの持ち物から心優しい女神が生まれたことをもって、自分の心が清らかであった証しとされた。そして、天照大御神もまた、その潔白を認められたのである。
『古事記』と『日本書紀』では、この誓約の描き方や、勝敗の考え方に違いがある。しかし、その違いを越えて伝わってくるのは、神々の前における誓いが、決して軽いものではなかったということだ。
宮司が大切だと思うのは、誓約が単なる勝ち負けの物語ではないということである。
須佐之男命は、自分の潔白を示すために、神聖な誓いを立てられた。そこには、もし自らの言葉が偽りであるならば、神意によって裁かれても構わないという覚悟があったはずだ。
本来、誓うとは、それほど重いものである。
ところが現代では、言葉があまりにも軽くなってしまった。公の場で約束しても、都合が悪くなれば言い換える。責任を問われれば、記憶にない、知らなかった、誤解を招いたと述べて逃れようとする。謝罪の言葉を口にしながら、同じ過ちを繰り返す者もいる。
言葉に魂がこもっていないのである。
神前での誓いは、他人に聞かせるための美辞麗句ではない。自らの生き方を神さまに申し上げ、その言葉に自分の命と責任を懸けることだ。
宮司は、誓いとは、未来の自分を縛るためにあるのではなく、未来の自分を正しい道へ導くためにあると思っている。
人間の心は弱い。その時には正しいと分かっていても、欲に迷い、恐れに負け、楽な方へ流されることがある。だからこそ、神前で決意を申し上げる。苦しい時にも逃げず、誘惑に負けず、今日立てた志を忘れないよう、神さまに見守っていただくのである。
誓いを立てたならば、それを守る努力を続けなければならない。誓いの尊さは、口にした瞬間に決まるのではない。その後、何年、何十年と守り続ける日々によって、初めて重みを持つ。
夫婦の誓いも同じだ。仕事への誓いも同じだ。国に尽くすという誓いも、祖先を敬うという誓いも、自らの志を貫くという誓いも同じである。
晴れた日に誓うことは容易である。困難が訪れた時にも、その誓いを守れるかどうか。損をしても、孤立しても、誤解されても、自らが正しいと信じた道を歩み続けられるかどうか。そこに、その人の真価が現れる。
また、この神話は、疑うことのすべてが悪いわけではないと教えている。
天照大御神は、須佐之男命を疑われた。しかし、それは根拠のない悪意からではない。山川が揺れ、国土が震えるほどの勢いで昇って来た者を前に、国を守る神として警戒されたのである。
信じることは尊い。しかし、何も確かめずに信じることと、真に相手を信頼することは同じではない。国や組織、人々の暮らしを預かる者には、相手の言葉を確かめる責任がある。
大切なのは、疑ったまま相手を断罪しないことだ。
天照大御神は、須佐之男命の言い分を聞かれた。そして、潔白を示す方法を問い、誓約の結果を受けて、その申し立てを認められた。疑いを持ちながらも、証しが示された時には認める。ここに、公正さがある。
最初から敵と決めつけ、自分に都合のよい証拠だけを集め、相手の言葉を一切聞かない。それは公正な判断ではない。反対に、身内や親しい者だからといって、何の確認もせずに信じることも公正ではない。
疑うべき時には疑い、確かめるべきことは確かめる。そして潔白が明らかになれば、素直に認める。その心が、社会の信頼を守るのである。
誓約によって生まれた神々は、その後、日本各地の氏族の祖神となり、人々から篤く祀られてきた。天照大御神と須佐之男命の間で行われた誓いは、その場だけで終わったのではない。そこから生まれた神々の御神徳は、長い時を越えて日本の国土と人々を守り続けている。
一つの誓いが、後世へ大きな流れを生む。人間の誓いもまた同じである。
父や母が立てた志が、子や孫へ受け継がれる。先人が国を守ろうと決意したからこそ、今の私たちがある。誰にも知られないところで責任を果たした人々の積み重ねが、社会の秩序と信頼を支えている。
私たちは、自分一人のためだけに生きているのではない。今日どのような言葉を発し、どのような約束を守り、どのような責任を果たすか。その一つひとつが、次の世代の国の姿をつくっていく。
宮司は、神前で願い事を申し上げるだけでなく、自らの誓いも申し上げてほしいと思う。
「人を欺かず、誠を尽くします」
「困難から逃げず、自分の務めを果たします」
「祖国と家族を大切にします」
「受けた恩を忘れず、世のため人のために働きます」
立派な言葉でなくてもよい。大切なのは、自分が本当に守ろうと思うことを、神さまに申し上げることである。
そして、神前を離れた後の日常において、その誓いを実践する。誰も見ていない時にも約束を守る。損得ではなく、善悪によって判断する。言ったことに責任を持つ。
神さまは、口先ではなく、その人の日々を見ておられる。
誓いとは、神さまを試すものではない。自らの心を神さまの御前にさらし、偽りのない生き方を貫く覚悟を立てることである。
潔白は、大きな声で主張するものではない。日々の行いによって静かに示すものだ。誠の人は、自分が誠実であると繰り返し語らなくとも、その生き方が証明する。
天の安河で行われた誓約は、今を生きる私たちにも問いかけている。
お前の言葉に偽りはないか。
お前は、その言葉に責任を持てるのか。
お前の潔白を、どのような生き方によって示すのか。
その問いから逃げず、神さまの御前にも、人の前にも、恥じることのない毎日を積み重ねること。
それこそが、日本人が取り戻すべき誓いの心である。