人は誰しも、幸せになりたいと願っている。
もう少しお金があれば幸せになれる。立派な家に住めば幸せになれる。仕事で成功すれば、世間から認められれば、抱えている悩みがなくなれば、きっと幸せになれる。
そう考えながら、多くの人が今日という日を通り過ぎている。
しかし宮司は、幸せとは遠くから歩いて来るものではなく、誰かが手に載せて与えてくれるものでもないと思っている。
幸せとは、自分の心が見つけるものである。
朝、目を覚ますことができた。温かいご飯をいただくことができた。外へ出れば、風が頬をなで、道端には小さな花が咲いている。家族と言葉を交わし、今日も自分の務めを果たすことができる。
これらは、あまりにも身近にあるため、私たちはつい当然のものと思ってしまう。
だが、本当に当然なのだろうか。
今日も命があること。食べるものがあること。雨風をしのぐ場所があること。自分を気にかけてくれる人がいること。働ける身体があること。
その一つひとつは、決して当たり前ではない。
宮司は、毎日を生きているだけで、人はすでに多くの恵みをいただいていると思う。その恵みに気づき、ありがたいと感じる心があれば、何げない一日は光を帯び始める。
「今日もご飯がおいしい」
この一言の中には、実に多くの恵みが込められている。
米を育てた人がいる。野菜をつくった人がいる。魚を捕った人がいる。それを運んだ人、店に並べた人、料理をつくった人がいる。そして、動物や植物の命をいただくことで、私たちの命は支えられている。
「いただきます」と手を合わせる時、日本人は食べ物だけに礼をしているのではない。その一膳が自分の前に届くまでに重ねられた、無数の働きと命に感謝しているのである。
宮司は、幸せとは、この「ありがたい」に気づく心から生まれるものだと思っている。
人は、ないものを数え始めれば、いつまでも満たされない。
あれが足りない。これも欲しい。あの人に比べて自分は恵まれていない。もっと評価されたい。もっと楽になりたい。
欲には限りがない。一つ手に入れれば、また次のものが欲しくなる。昨日まで願っていたものを手にしても、やがてそれを当然と思い、新しい不満を探し始める。
物が増えることと、幸せが増えることは同じではない。
どれほど多くを持っていても、感謝する心がなければ、人は満たされない。反対に、多くを持たなくとも、今あるものを尊び、喜ぶことができる人の心は豊かである。
古来、日本人は「足るを知る」という生き方を大切にしてきた。
これは、向上心を捨て、現状に甘んじることではない。自分に与えられた恵みを粗末にせず、感謝したうえで、今日できることに力を尽くす生き方である。
大きな夢を持つことはよい。懸命に働き、よりよい人生を目指すことも大切である。しかし、未来ばかりを見つめ、今日の恵みを見失ってはならない。
今日を喜べない者が、明日になれば急に幸せになれるわけではないからだ。
幸せは、何かを成し遂げた先にだけあるのではない。目標へ向かって努力できること、その道を歩いていること自体にも幸せはある。
宮司は、道端に咲いている小さな花にも、人の心を救う力があると思う。
誰に見られるためでもなく、誰に褒められるためでもなく、花は自らの命を精いっぱい咲かせている。踏まれそうな小道の隅であっても、日の光を受け、風に揺れながら、黙って咲いている。
忙しさに追われ、心に余裕がなくなると、人はその花に気づかなくなる。花がなくなったのではない。見る側の心が閉じてしまったのである。
美しいものは、私たちの周りに絶えず存在している。
朝焼けの空。雨上がりの匂い。木の葉を揺らす風。子供の笑い声。老いた親の穏やかな顔。久しぶりに届いた友人からの便り。
それらを美しい、うれしい、ありがたいと感じられる心を持っているかどうか。幸せを決めるものは、外にある出来事だけではなく、それを受け止める自分の心なのである。
宮司の名である「素心」とは、飾らず、濁らず、物事を素直に受け止める心である。
素心に立ち返れば、何げない一杯のお茶にも温かさを感じる。人からかけられた短い言葉にも、思いやりを見いだすことができる。今日一日を無事に終えられたことにも、自然と手を合わせたくなる。
反対に、心が不平や嫉妬に覆われていれば、どれほど恵まれていても喜ぶことができない。他人の幸せを見て腹を立て、自分の持つものを見ようとせず、足りないものばかりを数えてしまう。
幸せになるためには、まず心の曇りを拭わなければならない。
神社に参拝し、神前で手を合わせるのも、願い事をかなえてもらうためだけではない。日々いただいている恵みに感謝し、自らの心を静かに見つめ直すためでもある。
今日まで生かしていただいたことに感謝する。守ってくださった人々に感謝する。そして、明日も自分の務めを果たせるよう、心を整える。
祈りとは、遠くに幸せを探しに行くことではない。すでに与えられているものに気づき、自分の足元へ帰ってくることでもある。
人の人生には、苦しい日もある。病に悩む時、仕事を失う時、大切な人との別れに直面する時、簡単に幸せを語ることのできない日もある。
宮司も、苦しみを無理に喜びへ変える必要はないと思う。悲しい時には涙を流せばよい。立ち止まらなければならない時には、静かに休めばよい。
それでも、どれほど暗い時にも、小さな光まで失われたとは限らない。
誰かが差し伸べてくれた手。心配してかけてくれた言葉。温かい食事。朝になれば昇る太陽。その小さな光に気づくことができれば、人は再び立ち上がる力を取り戻すことができる。
幸せとは、苦しみが一つもない状態ではない。
苦しみの中にあっても、残された恵みを見失わず、今日という命を大切に生きること。それもまた、深い幸福の姿である。
宮司は思う。
人は、幸せにしてもらうのを待っていてはならない。誰かが自分を満たしてくれることを求め続ければ、心はいつまでも他人に支配される。
自分の幸せは、自分の心で育てるものである。
今日の食事をおいしいと味わう。出会った人に笑顔で挨拶をする。咲いている花に足を止める。家族に感謝を伝える。夜、無事に一日を終えられたことに手を合わせる。
それだけで、同じ一日が違って見えてくる。
大きな幸せばかりを求めなくてよい。
小さな幸せを大切にできる人は、人生そのものを大切にできる人である。一つひとつは小さくとも、それを積み重ねれば、心の中には揺るぎない豊かさが生まれる。
幸せは、いつか訪れるものではない。
すでに今、私たちの足元にある。
それに気づく心を持つことから、幸せな人生は始まるのである。