恩を刻み、怨みを捨てる―酔古堂剣掃に学ぶ日本人の誇り―

『酔古堂剣掃』を手に取り、宮司は一つの言葉に深く心を動かされた。

「人の恩は念ふべし、忘るべからず。人の仇は忘るべし。念ふべからず。」

この言葉に込められた教えは、まさしく人の生き方の根幹をなすものだと感じた。人は誰しも、日々の暮らしの中で誰かに支えられ、助けられて生きている。家族、友人、師、そして名もなき人々の親切や思いやり。その一つひとつの恩は、決して軽んじてはならない。忘れてしまうことは、人としての誠を失うことであり、自らの心を貧しくすることに他ならない。

一方で、怨みはどうか。時に人は裏切られ、傷つけられ、悔しさや怒りを抱える。しかしその感情に心を奪われて生きれば、魂は濁り、視野は狭くなり、やがて人生そのものを蝕む。だからこそ怨みは、速やかに心から手放さねばならない。恨みに囚われず、恩を重んじて生きる。これこそが、古の賢人たちが示した真の生き方なのだ。

『酔古堂剣掃』は、そうした珠玉の言葉に満ちた書である。書名は、古の学識に酔いしれる堂において、胸中の鬱屈を剣で掃くがごとく、鋭利な言葉で心を浄めるという意味を持つ。明の末期、時代の激変にあって表舞台を去った文人たちは、政治の喧騒から距離を置き、山林に身を隠して静かな筆を執った。彼らは自然を愛し、誠を尊び、節義を貫こうとした。その心が、短くも深い警句に凝縮されている。

この書を読むことで、宮司は改めて、現代の我々が忘れかけている精神の美しさと強さを思い起こす。現代は、情報と利害が錯綜する混沌の時代である。恩義を忘れ、怨みに固執するような風潮が蔓延してはいないか。人と人との関係が軽薄になり、誠が失われていないか。

いまこそ、我々はこの古書に立ち返り、心を澄ませて読まねばならない。恩を大切にし、怨みを捨てる。この単純でありながら深遠な教えを、日々の行いに活かすことこそ、日本人としての誇りを取り戻す第一歩である。安倍神像神社において、宮司はこの言葉を何度も唱えながら、来る人々に語りかけている。忘れてはならぬものを心に刻むために。

『酔古堂剣掃(すいこどうけんそう)』は、明代中期の文人・王世貞(1526年~1590年)が著した随筆・人物評論集である。書名の「酔古堂」は自らの書斎、「剣掃」は剣で世の虚妄を断つ意気を表す。内容は歴史上の人物評、逸話、詩文批評、時評など多岐にわたり、16世紀中国知識人の価値観や思想が色濃く反映されている。王世貞は文壇・政界の重鎮であり、その見識と観察眼により記された本書は、後世の人物論や随筆文学にも大きな影響を与えた。

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この記事を書いた人

佐藤素心(一彦)。宮司。昭和16年山口県生まれ。元大阪府警勤務。1979年(昭和54年)の三菱銀行人質事件では機動隊員として活躍。事件解決に尽力した。1990年(平成2年)の西成の暴動では自身が土下座をして騒ぎを治めた。その他、数多くの事件に関わり活躍した人物。警察を退職後は宮司となり奈良県吉野町の吉水神社(世界遺産)に奉仕。吉野町の発展に寄与。故・安倍晋三元総理をはじめ、多くの政治家との交流を持つ。現在は長野県下伊那郡阿南町に安倍晋三元総理をお祀りした安倍神像神社を建立し、宮司を務めている。

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