人と人の間に道がある。文明発達の原理と五倫の心

宮司は手元に、古い日めくりのような冊子を一冊持っている。日本の先人たちが人間学の精髄を、一日一頁に凝縮した書物である。ある日のページにこう記されていた。「儒教は、最も現実に即した倫理及び政治に関する教であり、人間の倫理を、根本的に君と臣・親と子・夫と婦・長と幼・朋友に関する五種の関係に分類し、この倫理を通じて道徳が実践されるところに文明が発達する」と。宮司はその一行をゆっくりと二度、三度と読み返した。
儒教といえば、時代遅れの封建思想だと切り捨てる声がある。そういった声は、特に戦後の日本で大きくなった。「主君への忠節など軍国主義の残滓だ」「夫婦の役割分担は差別だ」「年長者への礼は権威主義だ」と、五倫のひとつひとつが否定されてきた。しかしそれは、五倫の表面だけを切り取った誤解である。儒教の本義は、人間と人間の間にある「道」を問うことにある。関係性そのものの中に倫理を見出すことにある。
五倫とは何か。君と臣には「義」があり、親と子には「親」があり、夫と婦には「別」があり、長と幼には「序」があり、朋友には「信」がある。これを「五倫五常」と呼ぶ。義・親・別・序・信。この5つの徳目は、特定の時代の産物ではなく、人間という生き物が社会の中で生きていくための、普遍的な原理である。君と臣を、今の言葉に置き換えれば上司と部下であり、組織と個人であり、国家と国民でもある。その関係に「義」が失われたとき、社会はどうなるか。今の日本を見れば、答えは自ずと見えてくる。
宮司は警察官として現場に立った長い歳月の中で、組織と個人の間に「義」が流れているときと、そうでないときの違いを、肌で知っている。義のある組織では、上の者が命をかけて部下を守り、下の者が信頼で上の者を支える。義のない組織では、上の者は保身に走り、下の者は指示を待つだけになる。これは組織論であると同時に、国家論でもある。リーダーと国民の間に義が流れていなければ、どれほど精巧な制度を作っても、国は内側から腐っていく。
親と子の「親」は、単なる情愛ではない。親が子に誠実であること、子が親を敬うことで、はじめて社会の最小単位である家族が健全に機能する。夫と婦の「別」は差別ではなく、役割の明確さである。それぞれが持つ力を活かし合い、補い合う関係性のことだ。長と幼の「序」は、経験と智慧の尊重である。年長者が積み重ねてきたものを、若い世代が受け取る流れのことだ。朋友の「信」は、言うまでもなく誠実さである。
これらをひとつひとつ失った社会がどういうものになるか。宮司は今の時代を見渡しながら、静かな危機感を覚えている。親が子に誠実でなくなり、子が親を顧みなくなった。上司が部下のために命をかけることをしなくなり、部下が組織への忠節を持たなくなった。年長者の経験が「時代遅れ」として切り捨てられ、友人の間での信義が薄れ、利益があれば結びつき、利益がなければ離れる。その結果として、人と人の間に流れるべき「道」が失われていく。
儒教が文明発達の原理と呼ばれる所以は、まさにここにある。人間の倫理が実践される場こそが、文明の土台だからである。建物や技術や経済的豊かさは、文明の外側の姿にすぎない。文明の内側とは、人と人の間に流れる道義のことである。道義が生きていれば、貧しくとも文明は輝く。道義が死ねば、どれほど豊かであっても、その社会は文化的な砂漠になっていく。
令和の時代を生きる日本人に、宮司は問いかけたい。あなたの周りに、五倫の道は生きているか。上に立つ者は「義」をもって部下に向き合っているか。親は「親」をもって子に接し、子は「親」に感謝の心を持っているか。友人との間に「信」は息づいているか。これらは古めかしい問いではない。令和の今、最も切実に問われるべき問いである。
宮司が安倍晋三元総理を思う時、その方の姿に五倫の徳を見る。国と国民への「義」に生き、仲間への「信」に生き、礼の道を説き続けた政治家であった。あの方が亡くなられた今も、その背中から学ぶべきことはまだ尽きていない。文明は人の背中から継承される。教科書からではなく、生きた人間の振る舞いから継承される。だからこそ、宮司は今日も神前に立ち、五倫の道を自らに問い続ける。
儒教を信奉せよと言いたいのではない。特定の思想に拘泥することを宮司は好まない。ただ、人間が人間として共に生きていくための原理を、私たちはあまりにも粗末に扱ってきたのではないかと思うのだ。文明が発達するとは、便利になることではない。人と人の間に「道」が育つことである。その道を取り戻す営みを、今の日本は静かに始めなければならない。宮司はそう信じている。
